第150話「夢中問答」
居酒屋でサシ飲みをしていたときのことだ。
彼女がいった。
「ねえ、あたし、どうすればいいのかな?」
「どうって?」
「もっとはっきりとして欲しいってこと。わかってんでしょ、あなた、バカじゃないんだから」
わかっているでしょと言われても、そんな抽象的な問いにハイハイと答えられるか。
いや、わかってはいるんだ。
ただ、今の生活から新しく一変するというのは勇気のいる事である。
中には「女にそんなことを言わせてはいけない、よし自分からいこう」という男気のあるものもいるだろうが、残念ながら私にはない。
自分の二十四時間に、恋人の二十四時間をあわせるだけでも縛られているような気がするのに、結婚するとなると二人分の二十四時間管理が必要となる。
面倒くさくて仕方がない。
だから、そこを突かれるととても困る。
結婚することは問題ないとしても、決断するのは苦手なのだ。
自分の職業で考えると、調査をするまでは私の仕事だが、物件をどう処理するかは依頼人の仕事ということだ。
そちらの方が性に合っている。
「いや、わかっているけどさ」
「だったら考えて」
「そっちの家族の都合もあるだろうし」
「あたし、家ではお姫さまだから。あたしが決めればお父さんたちはすぐに首を振ってくれるわ」
「―――長女だからねぇ」
「考えて」
この時の彼女は押しが強い。
普段はそれほどでもないくせに、やはり結婚の話になると女は変わるのだろうか。
ただなあ、私だってさあ。
効果的な返事が出来そうもなくビールをグビグビ飲みながら口ごもっていると、
『問答をいたしたい! 答えられよ!』
と彼女が唐突に叫んだ。
びくりとして顔を上げても、いつも通りの彼女だった。
私の好きな女が変わらぬそこにいた。
だが、その背中には青白い光がまるで後光のように差してきて、馴染みの居酒屋とは思えぬ光景になっていた。
そのうち、彼女の両目が爛々と輝きだし、まるで割れ鐘が響くような胴間声で叫んだ。
『問答をいたしたい! ぜひとも、答えられよ!!』
思わず肝が縮み上がった。
こんな大声を叩きつけるように掛けられたことなどかつてなかったからだ。
しかも、耳にした途端に、背筋にゾゾゾと走った悪寒。
まさに私は怖気づいてしまったのである。
気絶してもおかしくないぐらいのビビりようだった。
「……お、おい。どうしたんだよ? 怒った? でも、おまえとのことはいつも頭に入っているし、別に蔑ろにしている訳じゃないから」
私は必死に取り繕った。
この段階では、単に彼女が結婚に対して消極的な私に業を煮やしただけとしか思えなかった。
それでこの怖気は異様すぎたが、そこは何故か気にならなかった。
「落ち着けって……」
『問答をいたしたい!』
愛しているはずの彼女が突如として意味不明なことを言い出したことに驚きながら、私は宥めようと適当に応えた。
「ああ、わかったよ。なんでも言ってくれ……」
すると、彼女は姿勢を正して、
「よくぞ申した。じゃが、この問答にしくじったのならば貴殿の命はないぞ。覚悟なされい!!」
「命がない!?」
なんだ、なんだ、プロポーズを受けなければ殺すということか。
それとも私からしなければ殺すということか。
どのみち殺すということですかああ!!
『
彼女が叫んだ。
そもさんとは、確か禅の問答で、修行者が師に問いかけるときのかけ声か何かのはず。
古典で習ったことがある。
意味は、「どうだ」とか「如何に」とかそういうものだった。
要するに、クイズ番組で司会者がいう「出題!!」と同じ意味だ。
私はその対になる言葉を返した。
「―――
言い負かしてやろう、論破してやろう、とかいう言葉が説破だ。
余計な知識として持っていたので思わず口に出てしまったようだ。
すると、彼女は顔に尖った毛のようなものがもしゃもしゃと生え出して、まるで獣のようになっていく。
あまりにもグロテスクだった。
幾度となくキスしてきた唇までが乾いた革のようになっていく。
『よいか、両足八足大足二足、横行自在にして、両眼天を指すもの、汝はいかに!』
乾燥して、毛むくじゃらになった彼女が叫んだ。
それが「問い」のようだった。
「えっ!」
私は意味がわからなかった。
それに答えろと言うのだろうか、と目を丸くしたら、
『はよお、答えい!!』
答えられなければ殺すということだろう。
いや、待って欲しい。
それはプロポーズでもなんでもないはずだ。
私が何も言えないでいると、そいつは、
『答えられぬか。ならば―――』
そいつの手がテーブルに置かれた。
鋭い鎌のように光っていた。
『命をいただく』
死刑宣告をされた気がした。
しかも、私は怯えてしまって何もできないのに。
だが、次の瞬間、耳元に大きな破壊音が響いた。
ガシャアアアンとガラスが割れるような音。
「はっ」
―――私は目を覚ました。
そこは調査を依頼されていた家の居間のソファだった。
(夢だったのか……)
気持ち悪いほどに汗で濡れた額を手で拭った。
うとうととしていたどころか、完全に落ちてしまっていたようだ。
いくら鍵を預かっているとはいえ、調査中の家で寝てしまうなど弛んでいる。
夢見が悪かっただけかと顔を上げると、バサバサと室内を何かが飛んでいた。
音からすぐにわかった。
巨大なカラスだった。
黒い、全長で五十センチはあるだろうカラスが天井すれすれを飛び回っているのである。
「な、なんだ!!」
ガラス窓が割れていた。
そこからカラスが侵入してきたのか。
私は怖くなり逃げ出そうとしたが、そうはいかなかった。
玄関に続く廊下の入り口のところに、ぬっと人が立っていたからだ。
黒い墨染めで襤褸の袈裟をまとった、大男の坊主であった。
禿頭で口の周りには、刺さると痛そうな針のような髭が無造作に生えていた。
いつのまにそんなところに入り込んでいたのか。
坊主は天井近くを飛ぶカラスを忌々しそうに睨んでいた。
『使い魔のカラス風情が、身どもの邪魔をするな!!』
『ソウハイカヌ! 妖魅如キノ好キニサセテタマルモノカ!!』
坊主の聞き覚えのある怒鳴り声に対し、なんとカラスが返事をした。
喋るカラス!
なんということだ。
そんなものがこの世にいるのか。
あと、今の坊主の声はさっきの夢の中の彼女のものとそっくりだった。
「あんたは……」
『人間、逃ゲルガイイ!! 貴様、殺サレルゾ!!』
私の目の前にテーブルに着地したカラスがそう言った。
この場合の人間というのは、まさに私のことだろう。
殺される?
どういう意味だ。
この場に照らして考えてみると、あの坊主に私が殺されるとでもいうのか。
いったいなんのために。
だが、その疑問はすぐには解けなかったが、すぐに逃げなければならない状況であることはわかった。
坊主が『ぬん!!』と右手を振ると、そこには信じられないほど巨大で凶悪な蟹のハサミのようなものが現われたからだ。
あんなものに挟まれたら、私の首なんてすぐにでも切断されてしまうだろう。
生き物の生々しさを持ちながら、ハサミの内側には日本刀の刃のようなきらめきがあった。
しかも、ところどころにある棘は牙を思わせる鋭利さだった。
そして、そんなハサミを持つ坊主の双眸は、血に濁っていた。
「ひいぃ!!」
カラスの言葉の真偽はさておき、あの坊主からは逃げなければならない。
私は居間の戸を開くと一目散に逃げだした。
後ろなんか気にせずに。
『逃がさぬぞ!!』
背中には坊主の金切り声だけが届いてきた。
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