第651話「てんちゃん」



 足の裏からむず痒い戦慄が伝わってきた。


「来たか」

「みたいですねー」


 二人の人を超越した巫女は、自分たちの下方―――つまり船底に巨大な恐ろしい妖気の塊が接近していることを感じ取ったのだ。

〈気当て〉の〈気〉が飛ぶ範囲ではない。

 闘士としての第六感が告げたのだ。

 敵がやってきた。

 と。


「大きさからしてダゴンかハイドラ。どちらも海上ではボクらにとって分が悪い」

「ですねー」


 てんの返事はお気楽極楽だが、それとてこの状況下では頼りになる。

 久しぶりに会った後輩は、外観も態度も以前のままだが、発しているオーラがかつてとはまったく異なっていたのだ。

 静寂に満ちた聖なる泉がヒトの姿をとったかのように、静謐で凛としている。

 発言が変わらないのだから、その違いはまさに変貌というのが相応しい。

 御子内或子ともあろうものが、熊埜御堂てんの湛えた深い〈気〉の全貌を把握できなかったのだ。

 

(化けたな)


 てんは確かに化けた。

 奥多摩のさらに奥で龍脈と霊的につながった呪法船の中に何ヶ月も閉じ込められていた間に、それまでとははっきりと違う成長を遂げていたのだ。

 サイコパスロリータと綽名されるほど機械的に人の骨を砕き、折り、破壊してきた彼女がまるで仏像のように静かな雰囲気を保っていた。

 意識すればことはわかる。

 だが、少しでも気を緩めるとどこか遠くへ飛んでいった仕舞ったかの如く気配がなくなるのだ。

 或子の病室に飛び込んで来たときは、ではなかったのに、この陸上さえも航行して決して人の目意外には捉えられない安宅船に乗ったあたりから予兆を示し、邪神の眷属の起こす嵐に突入してからは顕著になった。

 おそらく戦場に赴けば赴くほど顕著になるのだろう。

 つまり、これは……


(迸る闘気が極限まで澄み渡った結果ということかな)


 超一流の殺し屋の殺意が冷たく透明になるように、てんの闘気は限りなく静謐な無色になっていくのだ。


(……〈山王丸〉の中でこの船と龍脈と対峙して会話してきた結果だろうね)


 或子が出した結論はそういうものだった。

 彼女や明王殿レイのような荒々しい闘気とは正反対の穏やかさ。

 情動に問題があると言われていたてんだからこその変貌だったのかもしれない。

 まさに、〈社務所〉のこれまでの歴史において出現していなかったまったく新しいタイプの媛巫女なのだろう。


「てん、下の眷属を振りきれ!!」

「グレート或子先輩、〈山王丸〉の船足ではちょっと無理そうですよー!!」

「この船の耐久力で、こいつの攻撃に耐えられるのかい?」

「もっと無理でーす。だって、戦国時代の船を改修したものですからね」

「では、どうする?」


 泣き言は口にしたくなかった。

 まだ目的地にも達していない。

 打開策があるのならば何であっても乗るのみ。


「〈山王丸〉を操舵して引き離しますよー」


 てんの提案は実に現実的であったが、非現実的であった。

 こんな何百年前の安宅船を操って、水中を時速二十ノットで泳ぐバケモノを振り切るというのは。


「大丈夫です。てんちゃんはワンピ○ス全巻読んでいて船には精通していて詳しいんですよー」

「……せめて海○紀にしてくれ」


 或子もジャンプの人気漫画は読んでいた。

 だが、その漫画は海賊なのに操舵の素晴らしいシーンとかはでていないじゃないか、仲間に操舵士もいないし。


「おい、てん!! 真下に来たぞ!!」


 海上と海中で縦に並走しながら泳ぐ巨影が甲板からも見える。

 このままつきず離れずで並走してくれればいいが、海面下の影が浮上しようとすればその突き上げで〈山王丸〉が横転してしまうかもしれない。

 そうなったら万事休すだった。

 或子としては後輩に賭けるしか手はない。


「〈山王丸〉セットアップ!! 限界速度に達したと同時にブレーキ!! 船尾をスライドさせてそのままドリフト!!」


 てんが指示を出した。

 船と同調して認められた船長であるてんはその命令を口に出すことで、呪術船を自在に操ることができる。

 そして、船長の命令は絶対だ。


「船にブレーキはないだろ!! あと、ドリフトなんてできるか!!」


 車好きの相棒のおかげで、色々とくだらないことを覚えさせられていた或子はその知識が初めて役に立ったことを知る。

 もっともツッコミのネタとしてだが。


漂ええええええドリフトオオオオオ!!!」

「船はドリフトしないぞおおおおおおっ!!」


 だが、或子の常識は本来正しいが、船長の命令を絶対遵守する呪術船は船体の構造を無視して、水を弾く急制動をかける。

 衝撃に船体が軋み、甲板の二人にも慣性が襲い掛かる。

 しかし、或子もてんも軽気功の使い手であり、体重を減らすことで慣性という物理の力から逃れきった。

〈山王丸〉はてんの命令通りに船尾を意図的に滑らせつつ、速度をコントロールする。

 進行方向が変わった。

 まっすぐにしか泳がない海中の巨影とは進む角度がずれる。

 同時に海の中から巨大な腕が現われて、何かを掬いあげるように振られたが空ぶった。

 腕の持ち主はそこに〈山王丸〉がいると思っていたのだが、間一髪、てんの強引な操舵指示のおかげで躱せたのだ。

 

「マジかい!!」


 普段の自分自身の非常識さはさておいて思わず叫ぶ或子。

 海中の大海魔の攻撃を免れたのは事実だとしても、理性が中々言うことを聞いてくれない。


「取り舵いっぱあああああい!!」


 次なるてんの命令によって、〈山王丸〉は舵を左に目一杯にとって、進行方向を全力で左に向ける。

 先ほどのドリフトで変更した針路をもとに戻したのである。

 二人にとっての目的地は東京湾に浮かぶ〈ハイパーボリア〉。

 大海魔から逃れるために辿り着けなくなってしまっては本末転倒だからだ。


「オン キリキリ バザラ ウンハッタ!!」


 てんが唱えたのは軍荼利明王のための真言であった。

 軍荼利明王は彼女の守護明王である。


「何をする気だい?」

「明王を顕現させて〈山王丸〉をさらに活性化させます。この嵐の中、邪神の眷属を躱しつつ針路をとるには神通力が足りませんからねー」

「……そんなことをしたら、いくらキミでも力を使い果たすぞ」


 或子の言葉に対し、てんは不可思議なものを見るような顔で応えた。


「だから、どうしたっていうんですか?」

「……なんだって」

「てんちゃんが力を使い果たしたって、この船にはグレート或子先輩がいるじゃないですかー。お船の上ならともかく、ハンター○ハンターに辿り着けさえすればこっちの勝利は揺るがないんですからねー」

「……〈ハイパーボリア〉だよ、バカ」


 最強を目指す少女は呆れたように、恥ずかしそうに、微笑んだ。

 初めて出会った頃から、この後輩は彼女を本当の闘神のごとく崇めてくれるのだ。

 いや、違う。

 どんなときでも頼りがいのある姉を崇拝する妹のように慕ってくれるのだ。

 さらに今回は或子だけの力では辿り着けない場所へ運ぶために、輸送方法と護衛まで買ってくれるのだという。

 なんてことだ。

 こんないい後輩ができるなんて、女冥利に尽きるというものである。

 

「―――頼んでいいのかい、てん」


 或子は潤みそうになった双眸に、吹き付ける雨が入ってしまったかのような演技をした。

 泣いているところは見せたくなかった。

 お姉さんの小さな意地だ。

 それに対して、二つ年下の幼い顔の妹は言った。






「てんちゃんにお任せですよー」

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