第652話「悪化はさらに加速していく」
階段から降りるの前にそっと転がっていた鉄骨の一部を落とした。
カランコロンと落下していく。
下があまりにも静かなので、こういう場合は警戒心の方が強くなる。
ただし、ただ自然に落としただけでは物足りないので、少しだけ意識して強くあるものを投げた。
ヨグソトト教団の魔術師のものらしい死体からはぎ取った靴だ。
鉄骨とは違う軟らかい音を立ててくれる。
同時に、ついさっきまで耳にしていたはずの破裂音が連続する。
タタタタ……
中国軍の正式採用小銃の射撃の音なので、これは多分〈深きもの〉側だ。
入口のところで待ち伏せをしていたのだろう。
最初の音には反応せず、二つめに向けて撃ちこんだのは相当用心深いからだろう。
まさか、二回も囮が転がるとは思っていなかったに違いない。
そして、その音は待ち伏せをしていた連中をさらに狙っていたものを呼び寄せる。
『――――――ッッッッッッッ』
呼吸音とも隙間風の音ともつかない微かな声らしきものが聞こえて、
『ぎゃあああああ!!!!』
と二人分の悲鳴が聞こえた。
くぐもっていて人間のものとは思えない悲鳴だったので、おそらく高い確率で僕と同種族ではない。
何か恐ろしいことが階段の下で起こったことは確かだ。
間をおかず、
『ギャハハ、ギャハハハ、ギャハアアア!!』
という狂ったような哄笑が響きだし、外の豪雨と強風にかき消されないぐらいに大きくなっていく。
笑いに聞こえなくもないけれど、実際には違うのだろう。
少なくとも僕の知る喜びの感情はもっと陽気なものだ。
この哄笑に含まれているものはそんな生易しいものではなく、万物の生命そのものの価値を汚すだけの悍ましい呪いであった。
『赤くなった部分を撃つんだ!!』
『
くぐもった台詞はやはりあの半魚人モドキどもらしい。
敵対しているのは、さてどんな化け物か。
ただ言えることは、下層ブロックはまだ二つの勢力―――加えてはぐれ勢力もいるみたいだから、三つどもえか―――の争いの真っただ中ということだ。
〈深きもの〉どもとヨグソトト教団の魔術師、あと訳のわからない勢力がブロウアウトであらかた掃討された上部とは違い、まだしつこく戦っているのであろう。
となると、どこも狙っている行動や儀式には入れないはずだ。
邪神を海底龍脈のパワーを使って復活させようとしているのだから、慎重にやらないとならないのに敵対勢力を残したままではいつ何時邪魔されるかわからない。
敵を殲滅させないと安心して神のために祈れないのはどちらも同じなのだ。
つまり、この〈ハイパーボリア〉で行われている殺し合いは呪法でいう蠱毒のように最後にどこかの勢力が生き残るまで続けられるということである。
普通ならば僕はどっちかが主導権を確保するまで待ちに徹するところだけど、火災が始まっている以上、そうはいかない。
ガスタンクに引火したらすべてが吹っ飛ぶかもしれないし、上だけがなくなるだけかもしれない。
絶対に邪神復活を阻止したいというのであればもっと確実な方法をとるしかないんだ。
(ララさんから授かった策は最深部にあるキングストン弁をぬき、この〈ハイパーボリア〉ごとすべてを藻屑とすることと―――)
手にした〈銀の鍵〉を見つめた。
これを僕に渡した奴の思惑にのるという手もある。
浅黒い肌をした孟賀捻という青年の。
(いや、きっと別の名前がある。新宿の事変の時も、また別の事件の時も僕にまとわりついてきたあの男のしたことだろう)
この〈銀の鍵〉を手に入れたのはあの夢みたいな場所で人狼ゲームをしていたときのことだ。
そして、あのラブホテルでの出来事と言い、あの不可思議な空間に関係すると〈社務所・外宮〉とララさんの影がちらつくのも偶然ではないだろう。
ララさんはたぶんわかっている。
わかっていて承知の上で僕を泳がしていたのだ。
むしろ、あの孟賀捻という青年と部分的な同盟さえ結んでいたのかもしれない。
誰がどう考えても
(まあ、ララさんは手段を選ばないからな。……だったら、僕が何をしようと迷惑にはならないだろう)
自分でいうのもなんだが、僕の思考回路も腐れていることは否定できない。
だから、手にした〈銀の鍵〉を使ってもいいかななどという冷静で常識的な人なら吹っ飛びそうなことを頭に浮かべてしまうのである。
◇◆◇
「〈ハイパーボリア〉は我が国の未来のために、メタンハイドレート大規模採掘のために建設された夢の基地であり……」
経済産業省資源エネルギー庁の役人が用意された文章を、パワーポイントで作成された画像をあげながら説明を続けている。
官邸内の内閣危機管理センターに集まった人物はまず紋切り型の説明を始め、すぐには本題に達しそうになかった。
苛立った官房副長官がストップをかける。
「施設の説明はもう十分でしょ。現在の台風がどういう影響を及ぼすのかの概要をやりたまえ」
「は、はい……」
資源エネルギー庁の役人は手元の資料をめくり、パソコンを操作する。
「今回の台風の規模は私共が想定していたものをはるかに超えた、まさに超・超大型でありまして、このままでは最悪のケースも考えられます」
「最悪……これまでとの比較は?」
「まず、海上の台風の勢いが観測史上類を見ないほどに強いものであること、さらに現在の海域に居座ったまま動こうともしないということがあげられ、比較対照することさえ困難であると言わざるを得ません」
ざわめきが室内を覆った。
つまりは計測不可能ということだからだ。
「どうしようもないということか」
「日本どころか世界でも同様のケースはほとんどありえません。この大型の台風はすでに一日〈ハイパーボリア〉のある海域から動いていないのです」
大臣の一人が挙手した。
「気象庁の見解は?」
「―――アメリカ大陸に上陸したハリケーンでならばなんとか似たものが挙げられますが、地上のものと海上のものでは対策が異なりますのでなんとも……」
「そのまま大夫アが居座ったら〈ハイパーボリア〉は?」
資源エネルギー庁の役人は小さな声で答えた。
「……倒壊すると思われます」
「たかが台風でか?」
「超・超大型の台風ですので……」
「言い訳は聞いておらん!! なんとかならんのか!! 〈ハイパーボリア〉はアメリカとの技術提携によって作られ、両国の資本も投入された大プロジェクトなんだぞ!! 国家の重要なプロジェクトである施設が海の藻屑になるかもしれんのだぞ!! なんとかしろ!!」
「……努力はしております」
官房副長官は机を叩いた。
「努力などして当然だ!! 国益を護るために尽力するのがおまえたちの仕事だろうが!!」
剥き出しの権勢意識だった。
役人は顔面蒼白になって俯く。
どうにかできるものならしている。
だが、今の〈ハイパーボリア〉は海保の巡視船も、海自の護衛艦も危険すぎては入れない暴風域の中心にあるのだ。
どうにかできるものではない。
「―――通信が途絶えているというのは本当ですか?」
「あ、はい。昨日の夜から〈ハイパーボリア〉との連絡は出来ておりません」
「昨日の夜って……まだ台風が入っていない頃だろ? なのに通信が断絶しているのか? どうしてだね」
「いや、それも、原因はまだ……」
すると、警察庁から参加していた男が口を開いた。
「テロがあったということは考えられないのですか?」
「まさかテロなど……」
「いや、テロリストが台風の接近に乗じて施設の中に入り込み、通信を不能にしたという可能性もあるでしょう。……事実、公安部は〈ハイパーボリア〉のことを調べていた外国の男をマークしていたという」
テロという可能性が飛び出したことで危機管理センターの雰囲気が一段とあわただしいものになる。
すでに政府には手の負えない何かが起きているような恐ろしい予感がするのだ。
この場で発言するものが限られているのは、この空気を読まないか読めないもの以外、口を利くのも恐ろしく思われていたからである。
なのに、一人、挙手もせずに口を開いたものがいた。
この場にいるのが誰の目にも不似合だと思われる白衣と緋袴をはいた巫女姿の美女であった。
「総理レクというのを開いていただけないかしらね、官房長官さま。総理が来られる前にやはりわたくしから一言伝えておくことにします」
政治家か官僚しかいないはずの官邸になぜ巫女がいるのか。
誰もが不思議に思っていたのに誰もが口にしない珍事の挙句、なんと巫女は総理レクチャーの開催を要求したのだ。
傍若無人、横紙破りも甚だしい行為のはずであった。
だが、隣に座っていた官房長官は頷いて部下に命じた。
「いったん休憩。十分後に総理レクを行う」
「ありがとうございますね」
「なんの、御所守どの」
官房長官と巫女は目を合わせた。
親しみを感じられる仕草だった。
センター内の誰も、この巫女を連れてきたのが官房長官であり、彼女のために椅子までひいてみせる紳士ぶりを見せつけたのを思い出していた。
「……議題は、これでいいのかね?」
「加えて、政府の皆様がどうするべきかについて多少の預言をさしあげましょうか」
「ありがたいことだと言っておくのがよいですかな」
御所守たゆうという年齢不詳の巫女は、そのまま官房長官と共に管理センターをでていった。
政治家と官僚たちの唖然とした姿を残して。
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