第328話「〈サトリ〉といずみ」
〈サトリ〉は、まともな人間ならじっとしてはいられない寒さの鍾乳洞の中で、震えることもなく体育座りをしている女を見た。
人の心を読む妖怪して、〈サトリ〉の眼は人間の感情を色として視ることができ、考えていることを聞き取ることができる。
共感覚と呼ばれる特殊な知覚現象は、音を矢印として捉えたり、色を数字で視てしまうなど体験させることがあるが、〈サトリ〉の力はそれをさらに神がかり的に強くしたものといえた。
人間の放つすべての情報要素を、テレパシーのように受信できるのである。
そのため、〈サトリ〉の前に立ってしまった人間たちは、心を完全に読み取られてしまう。
人間だけでなく、動物や鳥類、植物や石のような鉱石にまでその力が及ぶ点が妖怪としての〈サトリ〉の恐ろしさといえた。
そんな彼でさえ、女の心はほとんど読み取れない。
むしろ、だからこそ〈サトリ〉は楽しんでいたともいえるのであった。
『……おめ、名前なんてんだ』
〈サトリ〉の言うことを女は聞き取っている。
だが、言葉の意味が女の内部に浸透するのには短くない時間が必要であった。
ただし、〈サトリ〉はその時間をじっと待ち続けることができた。
何百年も孤独に生きてきた妖怪には一時間や二時間の沈黙など苦痛ですらないのだから。
(いずみ……)
女の心にようやく一つの名前が浮かび上がった。
〈サトリ〉の誰何に応えるものであるため、いずみというのが女の名前であることは間違いないだろう。
いずみ。
妖怪には読み書きはできないので字はわからないが、〈サトリ〉は女のことをこれからは「いずみ」と呼ぶことにした。
『おめはいずみいうんか。泉のことか? わいも水の考えとるこたあわからんから、泉っつうんならおめに似合いの名だな』
〈サトリ〉はいずみの名前が気に入った。
石や植物のように考えていることが不変というわけでなく、動物のように三大欲求ばかりでなく、辛抱強く耳を傾けさえすれば聞こえてくる女に美しい湖の景色を見たからだ。
相手の姿も見えないぐらいに暗い鍾乳洞で向き合いながら、〈サトリ〉はいずみに問いかけ続けた。
『いずみは、花あ好きか。わいは好きだ。草の中でも花が咲くときだきゃあ、明るい気持ちになっているのがわかるかんだ。花が咲くときの、ぽっとした温かさが、わいは好きだ。おめはどうだ』
その問いにいずみの心が答えたのは一時間後だった。
いずみの心の最深部に小さく浮かんだ、
(白詰草)
白い花のイメージもついてきた。
その花の名前を〈サトリ〉は知らなかったが、見たことはあった。
白詰草はもともとオランダ人から献上されたものであり、野生化したのは明治以降の花なので妖怪である〈サトリ〉の名前まではしらなかったのだ。
ただ、綺麗な花だという認識はあった。
いずみが好きだと思うのも頷ける。
花期は春から秋にかけてなので、今の季節はどこにも咲いていない。
『そういやあ確か……』
〈サトリ〉はぽつりと呟いた。
独り言が多いのは彼の癖だ。
他の妖怪との接触もなく(妖怪の考えていることすら読み取れるので、他にも敬遠されてしまうのだ)、独りで暮らしてきた〈サトリ〉は思ったことをつい口に出してしまうのである。
自分からサトられるように振舞ってしまっているともいえた。
『あとで、ちぃと行ってるくあ。―――なあ、おめ、お天道様あ好きか。わいは好きだあ』
〈サトリ〉はまたいずみに話しかける。
話し合いでができたことが嬉しくて仕方ないからだった。
彼の人生でも滅諦になかった楽しい時間はまだ終わらない……
◇◆◇
皐月たちが山中に入ってしばらくすると、上空からカアと一鳴きして八咫烏が降りてきて、巫女の手の上に捕まってきた。
その姿はまるで日本古来の鷹匠のようである。
『巫女ヨ 久シブリダナ』
「そうだねえ。あんたとは久しぶりかな」
ヴァネッサ・レベッカもさすがに喋るカラスというものには驚く。
万物に神が宿るという八百万の神を疑いもなく受け入れる日本人と違って、キリスト教圏内の欧米人には馴染みにくいことであるからだ。
とはいえ、そのことをいちいち口にする必然性はない。
「〈サトリ〉を見つけたのかい。うちはあんまり長く山の中にいたくないんだよ」
『妖怪ハミツケラレナカッタ。ダガ、別ノモノヲ見ツケタ。巫女ニハソレヲ告ゲニキタ』
「何さ。まさか裸の美女の群れとか!」
『ソンナモノデハナイ』
皐月の減らず口をさっさと切り捨て、八咫烏は言った。
『ココノ反対側―――武州カラ、大勢ノ人間ガヤッテキテイル』
「ぶしゅう?」
「ネシー、だいたい埼玉県側のことだと思ってくれればいいよ。……警察の山狩りかい? ほら、怪我人が出ているからさ」
『違ウダロウ。元々、反対側ニアル寂レタ集落ニイタ連中ノヨウダ』
「集落? そんなのあったっけ?」
ここに来る前に確認した地図にはなかったはずだ。
皐月とてとりあえずその程度の確認は怠っていない。
『何十年モ昔ニ捨テラレタ集落ダロウ。オソラク今ハ誰モ住ンデイナイハズダ』
「……なんでそんなところに人が大勢いるのさ?」
『司直ノ眼ガ届カヌ場所デ善カラヌコトヲシテイタ輩ドモデアロウナ』
「わかるの?」
『ドウミテモ堅気デハナイ。アレハ筋者カ極道モノノ類イダ』
警察の目の届かぬ場所にヤクザやチンピラが溜まっていればだいたいは善からぬことを企んでいるに違いない。
確かに八咫烏のいうことはもっともであった。
皐月も納得するしかない。
しかし、ヤクザがどうして大挙して押し寄せてきているのだろう。
まさかピクニックという訳でもあるまいに……
「サツキ。素性のしれないものというと、病院に担ぎこまれた三人の仲間かもしれませんわよ」
「……ああ、あのヤクザと半グレのチンピラかあ。仲間の仇でもとりにきたのかな?」
「ジャパニーズ・ヤクザって仲間の報復のために妖怪と戦うのかしら?」
「まさか。あいつらは根っからのクズだよ。そんな殊勝なことはしないさ」
『確カニ巫女ノ言ウ通リダ。トテモ〈サトリ〉ヲ退治ニキタトハ思エヌ。武装サエシテハイナイヨウダシナ』
「……武器はない? じゃあ、なんのために押し寄せてきているのかねえ……?」
さすがに皐月にも想像がつかない。
ただ一つ言えることは、武装してはいないとはいえ大勢のヤクザが反対側からやってきているということだ。
そのことが皐月たちの〈サトリ〉退治に悪影響を与えなければいいが……
「うーんと。じゃあ、八咫烏はそいつらはいいから、〈サトリ〉を上から見つけてくれないかなあ。もし遭遇したら、うちとネシーが片づけておくから。年末の忙しい時期にヤクザと遊んでなんていられないからさ」
多数のヤクザを相手にしたとしても「遊んでやる」と言い切れるのが、さすがは〈社務所〉の退魔巫女である。
鍛え方の度合いが違いすぎる。
ヴァネッサ・レベッカでさえ舌を巻いてしまう。
『ワカッタ。吉報ヲ待テ』
そういうと、八咫烏は再び天に向けて飛び立った。
頼りになる鳥類を地上から見送ると二人は歩き出す。
妖怪〈サトリ〉退治には何かしら波乱がありそうな面倒な予感を抱えながら。
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