第327話「二人静か」



 妖怪〈サトリ〉は、奥多摩に点在する鍾乳洞にいた。

 年末の真冬ということもあり、普段の温度が15~17℃という鍾乳洞の中の方が氷点下に達する外部よりも温かい。

〈サトリ〉は妖怪であり、自然界に湧いて出る息吹のような存在であつたから、暑さや寒さに行動を左右されることはない。

 もともとが歳を経た動物が変化した妖怪でもなければ、外気などどうにでも無視できるものなのだ。

 それなのに、どうして〈サトリ〉が寒さを避けるために鍾乳洞にいるかというと……


『おめ、やっぱあ、そういうもんなんだなあ』


 本来、〈サトリ〉の言葉には感情はない。

 喜怒哀楽のうち、あえて似たものをあげるとしたら喜ぐらいしか心の揺れを持ってないのだ。

 だから、〈サトリ〉にとって特に嬉しいことでもない限り、能面のような顔にしわが寄ることはほとんどなかった。

 それなのに、今の〈サトリ〉は喜色満面の笑みに近いしわを浮かべていた。

 彼は喜んでいるのだ。

 目の前にいる女の存在を。


『……おめ、里っ子にしちゃあ思っちょること変わらんからいいわあ』


 さっきまで無目的に歩き回るだけで止まろうともしなかった女も、今は暗闇の中、〈サトリ〉の前で静かに座っている。

 座っているとしては不自然な背筋の丸め方であったが、〈サトリ〉はそんなことを気にしない。


『里っ子はわからんことばっか思っちょるけえ、わいは苦手じゃあ。こないだの男衆もそりゃあわからんことばっか頭にあったなあ』


〈サトリ〉はこの前のことを思い出した。

 深山幽谷の奥底で動物や草木を友として存在している〈サトリ〉にとっては、人間というものは面倒くさいものでしかなかった。

 思考を読むこと自体は愉しいが、常日頃から一緒にいたくはない生き物であった。

 まだ鳥や兎、石や植物の方が落ち着ける。

 ただ、人の心を読み取り、場合によっては餌食として食らってきた妖魅としてはたまに人里まで近づいてみたくなる衝動に駆られてしまう。

 幸い、今年の冬は奥多摩の彼の住処にも雪が降らないので、これ幸いと人里まで降りてきたのだ。

 もし、美味そうな人間がいたら攫って食べるもよし、人間の益体もない思考を読み取って楽しむもよし。

 彼のような妖怪にとっての天敵が現われたらすべてを捨てて逃げられればそれで問題はなかった。

 冬ということでほとんど里人には出会わなかったが、何人かには遭遇した。

 腹もすいていないこともあり、〈サトリ〉は心を読んで脅かしてやるだけで満足してしまっていた。

 女に出会うまでは。

 なんとこの女は里っ子でありながら、考えることがほとんど石や植物と変わらないのである。

 そのくせ、時折、人間らしい心がぼんやりと浮き上がり、〈サトリ〉にとってはそれを読み取るのが遊びのようでとても楽しかった。

 面白い里っ子を見つけた、と〈サトリ〉は考えた。

 だから、この女を連れていこうとした三人の男衆を叩きのめした。

『ぺすとる』なる武器を持っていることを除けば、百年前の武士とは比べ物にならない程度の貧弱なものたちだった。

〈サトリ〉が思わず手加減できずに骨まで叩き折ってしまうほどに貧弱でつまらない相手。

 彼の住処の傍にある峠に住む化け物めいた集落のものたちと比べたら、ミミズを引きちぎるよりも容易かった。

 三十年ほど前に拾った鎌で斬りつけると鳥のように甲高い声で鳴いた。

〈サトリ〉は里っ子の脅したときの恐怖や動揺のさまを見るのは好きだが、死ぬ寸前の断末魔にはいつも同じなので興味がなかった。

 だから、殺しもしないで放置したまま、女だけを担いで奥へと帰った。

 自分の本来の住処では、この女が凍え死んでしまうかもと思い、誰も近寄れない渓流の傍にぽっこりと口を開けた鍾乳洞に連れてくる。

 女は一言も口をきかない。

 里っ子らしい思考も、たまに浮き出る程度で〈サトリ〉でなければ石ころと大して変わらないと思ってしまうぐらいである。

 だが、それでも〈サトリ〉は嬉しかった。

 四六時中けたたましくものを考えている里っ子より、このぐらいの方が一緒にいて落ち着ける。

 変化のない暮らしに飽きていた彼にとっては久しぶりに楽しい日々になりそうであった……



         ◇◆◇



 奥多摩駅まで辿り着くと、今度は日原鍾乳洞に向かう道に右折する。

 まだ雪が降っていないからか、通行止めにはなっていないが、この時期は鍾乳洞の営業が休止しているため、対向車はいない。

 工事の車両などもいないせいもあり、カーブを曲がるときにクラクションを鳴らしても無意味な状況が続く。

 奥多摩の道は大きく曲がるカーブが多いが、平坦なものが多いため、運転そのものに苦労は少ない。

 日本の狭い道に慣れつつあるヴァネッサ・レベッカのプリウスαは、パワーモードのまま楽々進んでいった。


「あれ、青梅と奥多摩の境って話じゃなかったっけ。あ、わかった。ネシーってば、うちと二人っきりでしっぽりと濡れようとうえてこういうルートを……」

「少し黙って」

「あいあい」


 相棒の減らず口を黙らせるために、ヴァネッサ・レベッカはカーステレオの音量を上げた。

 セットしたUSBから軽快な音楽が流れる。

 アニメソングだった。

 しかも、既存の歌手ではなく出演の声優が歌うような深夜に流れるタイプのものである。

 日本に来てからというもの、彼女が学業の傍らアニメばかりを観ているのは、スターリング家の女としてまともな学生生活を送れなかったことへの代償行為の一つであった。

 特にお気に入りなアニメが、ほとんど学園ものだということからも見て取れる。

 そして、ここ数ヶ月の生活は彼女にとってかけがえのないものになろうとしているのだ。

 FBI捜査官としてやらなくてもいい、皐月のお役目の手伝いを買って出るのもある意味ではその埋め合わせである。


「なんすか、これ?」

「京都アニメーションの新作なのよ。知らないのかしら?」

「うち、アニメには興味ないんだよ。あるのは女体の神秘と男性の秘密だけ」

「ほんと、よく巫女をやっていられるわよね。神様にお仕えする神職なんでしょう」


 皐月は開いた窓の枠に肘をついて、外を眺めてながら、


「行き場所がなくて〈社務所〉に拾われた感じだからね、うちは。親父は五年ぐらい前から世界放浪中だし、実家の道場は兄貴分の一番弟子が継いでいるし、ほんと行き場がないからねー」

「……年末年始に帰ったりはしないの?」

「しないねー。ずっとネシーと一緒に乳繰り合っている方がいいぐらいだ。懸念していたクリスマスも無事に終わったし」

「そうね」


 殺人鬼に狙われるフェロモンと運命を垂れ流しているというスターリング家の女にとって、クリスマス前後というのは高確率で危険がやってくる日なのである。

 最も危険なのはハロウィーンやイースターだが、クリスマスに暴れ回る怪物も少なくはないからだ。

 だが、ここしばらくヴァネッサ・レベッカが警戒していた〈殺人サンタ〉というカナダ産の殺人鬼についてはなんとこの日本で始末がついたという話であり、人知れず安堵したのは事実である。

 あとはこの一年ほど、全世界で確認されている〈キラー・クラウン〉という大量殺人鬼なのだが、こちらは何故だか都会には現われないのであまり警戒はしていない。


「―――せっかくの忘年会イブだというのに」

「なにそれ?」

「年末恒例のマラソン宴会だと、23日がクリスマスイブイブで、24日がクリスマスイブで、25日がクリスマスで、26日がアフタークリスマス。27日が忘年会イブで、28日が忘年会本番、29日がアフター忘年会。30日が大晦日イブで、31日が大晦日。一日が新年会といかないとならないんだ。それをすべて乗り切ってこそ、新年を大切に迎えられるんだよ。わかるかい!?」

「……凄いわね。さすがジャパン」

「ああ、これが日本の文化さ!!」


 あまりにも長い宴会時間にヴァネッサ・レベッカが絶句しているのを横目で見ながら、


(まあ、嘘なんだけどね)


 内心で舌を出す刹彌皐月である。


「……兄弟子はうちに帰ってくるように言っているけど、まああんな殺人鬼もどきと一緒にいるのは気が休まらないからいいか。やっぱり」


 しばらくすると、日原鍾乳洞へ続く道とは反対側に行き、観光客も近寄らなそうな支道に辿り着いた。

 プリウスαを路肩に止めると、二人はトランクから登山用のリュックを取り出す。

 ヴァネッサ・レベッカ用の装備だ。

 彼女はさらに懐に法務省から許可の下りている拳銃を忍ばせている。

 いざというとき、日米安保条約に基づく超法規的処置として発砲が許されているのであった。


「ネシーは簡易結界用のワイヤーを一応頼むね。〈サトリ〉だったら、うちだけでも楽勝なんだけどさ」

「油断をしてはダメよ。人の心を読んでから反撃できるということは、〈サトリ〉という妖怪は人間離れした反射神経と思考回路を持っているということでしょう。いくらあなたでも油断したら負けるわ」

「―――ま、それもそっか」


 皐月の格好は改造巫女装束のまま変わらない。

 全身に〈気〉を巡らせることができる退魔巫女にとって、この程度の体温調節は容易な業だからだ。

 ただし、いざという時に備えて指先が凍りつかないように手袋だけはしっかりと嵌める。

 これで準備はできた。


「さて、〈サトリ〉退治にしゅっぱーつ!! でっぱーつ!!」


 退魔巫女とFBI捜査官は意気揚々と奥多摩の山中に踏み入っていった……


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