第649話「届かぬ星に手を伸ばせ」
その日、一つの都市伝説が産まれた。
多摩川を下っていく一隻の巨大な船を見掛けたという都市伝説だ。
奥多摩湖の湖水の出口である小河内ダムから、青梅市を流れ、南東に多摩丘陵と武蔵野台地の間を瀬と淵を繰り返しながら下っていくのが多摩川である。
東京都の調布市、神奈川県の川崎市多摩区からは東京都と神奈川県の境を流れ、大田区と川崎市川崎区との境で、羽田空港を河口に据え、最終的には東京湾に注ぐことになる。
東京都の河川でありながら、あまり護岸化されていないという特徴をもち、動植物も豊富であった。
だが、途中で幾つもの橋があり、巨大な船が下っていくことなどありえないはずである。
それにどういう訳か、既存のどんな機器による撮影もできず、ただ「船が多摩川を下っていった」という目撃者の証言だけがSNS上で拡散していた。
ゆえに数多の証言は、
「橋に邪魔されそうになると、魚のように跳びあがって越していった」とか、「なにもない場所をいくみたいに通り過ぎていった」
などの嘘にしてはもう少しリアリティがあった方がいいのではないかというものばかりで、発信者のリプ欄には、「嘘松おつ」や「ソースだせよ。嘘を嘘と見抜けない奴は……」という言葉が並んだ。
実際に、写真や動画を撮って添付したものもいたのだが、一切何も映っていないのだから信じてもらえないのも当然である。
かなりの数のツイートがされて、Twitterのトレンド欄にも入ったというのに。
SNSにあげたものたちもそのうちに自分自身の目が信じられなくなり、投稿を消してしまうものがいたほどだった。
ゆえに、その数多の書き込みの中に、
「―――でっけえ木の船の舳先のとこに女の子が片足をのっけたまま腕組みをして立っていた」
というものがあっても誰も取り合わなかった。
その女の子が巫女の様な白衣と紅のミニスカを履いていて、二つのお団子を結った独特な髪型をしていたことも、その顔に檻から解き放たれた餓狼のような戦闘意欲が満ち溢れていたことも、その船がかつて戦国時代の日本で建造された呪術で動く
船の名は〈山王丸〉―――かつて関西最強の退魔部隊〈八倵衆〉が奥多摩に運び込んだ陸を往く安宅船であった。
そして、舳先にいる巫女の名は―――熊埜御堂てん。
斜め後ろで傷んだ身体を少しでも休めるために片膝座りでじっと瞑想をしている少女は―――御子内或子。
ともにこの人知を超えた航行能力を持つ木造船で東京湾に入り、嵐によって完全隔離されたエネルギー採掘施設に乗りこむつもりなのであった。
「……音子たちには悪いことをしたかな。ボクらだけが先駆けするというのは」
「仕方ないですよー、スーパー音子先輩やファイヤーレイ先輩は〈
「つまりは、てんとボク、あと尤迦だけか」
「あと、京一先輩ですねー」
てんがいうのは、春に発生した〈八倵衆〉との第一戦において出陣したものたちしか、この安宅船には乗れないということだった。
ゆえに、彼女はただ一人御子内或子だけを強引に誘って〈山王丸〉を出港させたのである。
多摩川は奥多摩と繋がっており、彼女と〈山王丸〉が眠りについていた場所とは目と鼻の先であったことから移動は容易かった。
「で、尤迦はどうしたんだい?」
「尤迦パイセンは、『あたしらはパス。あんたらだけで頑張りなさい』って激励してくれましたー!!」
「―――たぶん、激励はしていないぞ。……ただ、まあ、雨舟の連中が動きださないのなら、まだ
或子は、一度だけ出会ったことのある双剣使いの少女のことを脳裏に浮かべた。
百戦錬磨の彼女がこれまでただ唯一「憧憬」を覚えかけた相手である。
彼女の前では一瞬たりとも隙を見せなかったのは、きっとこちらに手の内を知られたくないというよりも情報を与えたくないゆえだろうと考えていた。
しかし、同時に篤い友情も感じている。
〈山王丸〉に呑み込まれたてんのために見せた涙は決して嘘ではないと信じられたから。
「だけど、ホントにこの安宅船はあの嵐の中も往けるのかい?」
「できますよー。もともとこれは〈八倵衆〉がその……ハ、ハ、ハクション大魔王に往くために用意してあったものですから」
「〈ハイパーボリア〉だ。……なるほど、過去の呪術木造船なんかを引っ張り出してきたのは、〈ダイダラボッチ〉を運ぶためだけでもなかったということか。姑息な知恵が働く奴らだ」
「ですよねー」
久しぶりにする後輩との会話は愉しかった。
思わず或子は微笑んだ。
無事に帰ってきてうれしいという思いと、ここから先に待ち受けている苦難に対する警戒とが鬩ぎあう。
しかし、彼女の勘はまだ叫んでいる。
相棒は無事だ、と。
京一はまだあの施設の中で健在だ、と。
この御子内或子が到着するまでにやられていたりするはずはない。
「まったく、京一先輩にも困りものですよねー。〈銀の鍵〉まで持っているみたいですし」
「〈銀の鍵〉だって? どういうことだい?」
「えっと、てんちゃんが〈山王丸〉と同調していたときに流れ込んで来た情報ですよ。さすがに遠すぎるんではっきりとはわからないですけど、今の京一先輩は〈銀の鍵〉の継承者なんです」
「……京一がどうしてそんなものを。なんで、てんにはわかったんだ」
その問いに対しててんは、
「オン ソンバ ニソンバ ウン バザラ ウンハッタってのが聞こえましたー」
「それは降三世明王真言だね。「過去・現在・未来の三つの世界を収める神であるシヴァを遂に降伏させ、仏教へと改宗させた降三世明王。……またの名を「三つの世界を収めたシヴァを倒した明王」―――なるほど、なんとなくわかってきたよ」
「何がですかあー」
「キミら〈五娘明王〉についてだよ」
「てんちゃんたちですか」
「ああ」
或子は指を折って数えだした。
「レイの不動明王。音子の大威徳明王。藍色の金剛夜叉明王。皐月の愛染明王。そして、てんの軍荼利明王。キミらは五大明王の力を顕現させている」
「そうですね」
「だが、本来五大明王といえば愛染明王ではなく降三世明王が配置されるべきなんだ。なのに、皐月は降三世明王の化身ではない。それはどうしてか?」
「……はにゃあ」
脳裏に浮かんだのはただの推測。
だが、今のところかなり妥当な結論といえた。
「だったら、京一に〈銀の鍵〉が渡った理由もわかる。つまり、そういうことか。まったくたゆうのお義祖母ちゃまも恐ろしいことばかり考えるね!!」
或子は東京湾に浮かんで航行する安宅船の甲板で呟いた。
「いいさ。彼方で何が待っていようと、そこに手を伸ばしても届かぬ星しかなかったとしても。ボクは辿り着いてみせる」
御子内或子は真夜中の海を睨みつけて、
「ボクは〈星天大聖〉。―――星にも斉しい大聖者の名を持つ女だ」
と、雄々しく宣言をするのであった。
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