第390話「あなたも知らない世界」



 ダイニングに行くと、テーブルに僕のぶんの朝食が用意してあった。

 ざっと見ればわかるのだけれど、僕が寝ていたのは夫婦の寝室ということでシックでシンプルな部屋だったが、他の部屋は意外にファンシーで可愛い感じだった。

 テーブルクロスもキャラクターものだ。

 子供向きではないので、おそらくはこの家の奥さまの趣味に違いないだろう(男でここまでする人はそうはいない)。

 といこうとは、レイさんの趣味ということになるのだが。


めしは用意しておいたから、早く食べて出掛けなよ。今日はまだ春休みだから学生が少なくて混雑しないとは思うけどさ」

「うん、いただくよ」


 レイさんはなんだか朝から家事で忙しそうだ。

 この行動パターンからすると、旦那が出掛けた後に自分も勤め先にでる共働き家庭のようである。

 一緒に朝ご飯を食べるという習慣のない家のようだ。


(って、一応は僕の家庭ということになっているのか)


 この段階で僕はなんとなくわかっていた。

 ここは僕の知っている世界ではない、と。

 どういう仕組みなのかは不明だが、僕のいた時代と世界から少なくとも十年近くは未来のもののようだ。

 気が付いたら老けていて、知らない人生を送っている、いわゆる〈スキップ現象〉なのかと思った。

 簡単にいうと、記憶障害だ。

 頭を打ったりしてその衝撃で記憶がなくなり、もしくは人格が変になり、自分が過ごした年数を完全に忘却してしまうというものである。

 そうなると、僕が過ごしてきたはずの歳月はまったく覚えていない、ある意味では無駄になってしまうことになる。

 僕にもそういう現象が起きてしまったのかと思った訳だ。

 ただ、それだと僕についてきているサム・ブレイディのことが説明できない。

 こいつが完全に僕の妄想だというのならばともかく、そこまで僕の記憶やら人格やらがおかしくなったとは到底思えない。

 そして、サム・ブレイディの発言も加味すると、僕はなんらかの妖魅による攻撃を受けていると考えるのが妥当だ。

 一言で表すと、「新たなスタンド使いの攻撃だ」って感覚である。


『おい、なにをしやがる、出しやがれ』


 僕がぶら下げてるジャムの空き瓶の中でサム・ブレイディが喚いた。

 逃げられると困るのでここに監禁しているのだ。

 カブトムシやセミを捕まえたときのように。

 どうもこいつの姿はレイさんには見えていないようだが、逃げられると面倒だからという理由である。


「あとでね」


 殺人鬼の発言は基本的にすべて却下するのが僕の方針である。


「じゃあ食べるかな」

『……ほんと、てめえはたいした肝っ玉してやがるぜ』

「うるさいよ」


 瓶ごと振ると、サム・ブレイディはギャアギャア叫んで泣きそうになっていた。


「いただきます」


 ふっくらと炊いた白米に温かい豆腐となめこのお味噌汁、おそらくは自家製の漬け物、シャケの切り身と納豆とひじきの煮物という地味な定食みたいなメニューだったが、手を抜かないで作られていることはわかる。

 うちの母親よりもいいのではないだろうか。

 一口食べてみると、凄く美味しいというわけではないが、朝一番に食べるには相応しい上品な味だった。

 レイさんって料理はできる方だったんだな。

 ハロウィーンパーティーのときに御子内さんとかはほとんどできなかったから、少しだけ新鮮だ。


「おい、京一くん。食べ終わったのなら、さっさと出掛けろよ。オレも神社にいかなくちゃあならないから」

「うん、わかった」

「……あと、出掛けるときはちゅーを忘れないでくれよ」


 味噌汁吹きそうになった。

 さっき女に化けたサム・ブレイディにも言われたが、それに比べて千倍は破壊力がある。

 恥ずかしそうに顔を背けながら、レイさんが言うのだから。


「う、うん、わかったよ」


 僕は残念なことに女の子とキスをしたことはない。

 であるから、いくらなんでも演技ですることもできなかった。

 ここがどういう世界なのかも知らないのに、女の子とキスなんかできないよ!


「仕方ない。逃げるよ」

『てめえだけで勝手に逃げろや、バカめ』

「ふーん」


 僕は用意されていた納豆をまるごとサム・ブレイディを閉じ込めた空き瓶の中に放り込んだ。


『や、やめろおおおお!! 納豆はやめろおおおおお!!』

「うるさいから黙ってね。あと、ついでだから辛子もサービスでつけるよ」


 辛子も放り込んでやった。

 これが眼にでも入ったら痛いだろうなあ。

 肌についても大変だ。


『てめえは鬼かあああああ!!』


 僕は空き瓶を掴むと、掃除をしているレイさんにばれないようにそっと部屋を出た。

 どうやら僕らが住んでいるらしいのは家族向きのマンションの三階だった。

 それから、町に出る。

 通りのほとんどが知らない町並みである。

 ちなみに貼ってあるポスターなどは僕にとっても既知のものばかりだ。

 そのあたり、整合性というものが駆けている。

 つまり、もし本当に未来の世界だというのならばポスターとかは十年分進んでいなければならないのだから。


「……僕の記憶のままってことか」

『みてえだな。てめえの記憶を使って再構成された世界なんじゃねえの』

「頭良さそうなこと言うね。でも、それってなんなの?」

『さあな。自分で考えろや。って、なんで俺がてめえの面倒見なきゃなんねえんだよ! 忘れたのか、俺に対してした仕打ちを!』


 うるさいので、とりあえずぶん回しておいた。


 うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ


 すると、前方を歩いていたパンツルックのOLさんが手を振って駆け寄ってきた。

 二十代半ばぐらいだろうか。

 元気いっぱいという様子だった。


「ちはー、京一パイセーン!!」


 若手のOLらしく、ショートカットで前髪ぱっつんがびしっと決まっている。

 声に聞き覚えがあったので記憶を探ってみると、


「あー、てんちゃんか」

「うわ!!」


 前髪ぱっつんOLがびびったようにのけぞる。

 動きは大袈裟だがなんとなく熊埜御堂てんちゃんだとわかる。

 今年は高校生だというのにほとんど小学生みたいなイメージしかなかったから、成長した姿はとても新鮮だ。


「どうしたの?」

「京一パイセンがてんのことをちゃんづけで呼ぶなんて久しぶりなんでマジぱねえ!! って五年ぶりぐらいじゃね!?」


 つまり、この子もレイさんと同様十年後ということか。

 かつての「てんちゃんにお任せですよー」みたいな甘い喋りが、若手芸人みたいになっているのは面食らって仕方ないが。

 

「えっと、てんちゃん。その格好からすると、会社員なんだよね。遅刻、大丈夫?」

「ダイジョーブっすよ!! パイセンと朝からあえるなんてこんな貴重なことはないですからね!! いつもは社に行ってからでないと会えないッスから?」

「社に行ってから?」

「なにいってんすか!? 同じ会社の先輩後輩の仲じゃないッスか! まあ、てんの方が短大でてから先に入社してますから先輩なんスけどねー!!」


 なるほど。

 そういう設定―――未来なのか。


「でも、パイセン、随分ラフな格好っすね。背広はどうしたんスかー? もしかしてサボり?」

「いや、今日はちょっと有給なんだよ」


 確かに今の僕は私服姿だ。

 パジャマでないだけマシだけど、背広を着て出るとレイさんにばれそうなので、まさに着の身着のままで出てきたという訳である。


「ってことは、……ついにこのてんとオフィスラブをすることに決めたんスね!! ずっと待ってましたー!! 毎年、プレゼントにOLもののAVを詰め合わせで送った甲斐がありましたよー!! みてください、このパイセン好みのピチピチしたOL姿を!! かもーーーん!!」


 うん、昔のほうがまだ良かった。

 なんだ、このハイテンション。

 君も会社行かなくていいのか、まだ朝っぱらだぞとか、路上で多くの人が見てるんだけどとか、言いたいことはあるがここはさっさと逃げるのが吉であろう。

 ただ、下手な誤魔化しをすると、かつては音に聞いたサイコパスロリータと恐れられたてんちゃんだから何をされるかわからない。

 骨を砕いたり関節を破壊するのが基本の子だからだ。

 おそらくあっちは本性なので年を食っても変わらないのは間違いないところである。

 だから、僕は彼女の手をとって、


「とりあえず人のこないところに行こうか」

「はーい、パイセーン!!」


 と、元気よく返事をするてんちゃん(十年後予定)を連れて一時退散することにした。


 

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