第389話「悪夢反転」
微睡みつつ、明るさを求めるようにぼんやりと僕は目を覚ました。
目じりがやけにくすぐったい。
仰向けになっていたので、上が視界に入ったが、よくあるセンテンスの力を借りるのならば、「知らない天井」だった。
記憶を整理してみようとすると、ついさっきまで僕は渋谷にあるラブホテルの一室で〈枕返し〉を誘き出すための囮になっていたはずだと思い出す。
だが、あのちょっと薄暗い、いかにもな部屋の記憶とはまるっきり違う、明るい朝の陽ざしが差してくるベッドに僕は横になっているようだ。
「……あれ、おかしいな」
手を伸ばしてみると、これも見覚えのないパジャマを着ているようだった。
青と白のストライプの柄なんて僕は持っていない。
「ああ、起きたあ。もう、朝だぞ、このお寝坊さん」
と、甘ったれた媚びるような声と台詞を吐いて、僕の視界に入ってきたものがいる。
おっぱいを剥き出しにした女の人のようだった。
というか、正直に言うと身体は裸の女の人だ。
ぶっちゃけ、物凄く色っぽくてAVでも観ているような気持ちにさせられる。
そして、そいつが言った。
「夜明けのコーヒーでも飲まない?」
僕にしなだれかかるように女の体を持つものが迫ってきた。
そのまま唇を尖らせる。
キスをしようというのだ。
僕が何もしなければまずキスされていただろう。
だから、僕は横になっているのを上半身だけ起き上がって、とりあえず思いっきり顔面をぶん殴っておいた。
体勢が悪いので力は入らないが、いい感じでカウンター気味に決まってくれたのでそいつは派手にぶっ飛んでいった。
『い、痛い!! 何をするの!!』
顔を押さえて、地面に這いつくばりながら文句を言うそいつの皮膚は半分以上焼けただれたように醜い。
とはいえ、少し細工を加えたラバーマスクみたいなものなので気持ち悪くはない。
いや、躰だけは全裸の色っぽいセクシーな女性なのに、顔だけは火傷した男という姿は十分に気味が悪いか。
よよよ、と横向きに泣きそうになっている格好は正直不気味だ。
「……何をする気だ、おまえは」
『何って、目覚めのちゅーを』
「ふざけるのは止めてくれないかな。すごく気持ち悪いから」
『気持ち悪いなんて、ひどいぃぃぃぃ!!』
泣き落としが通じると思っているのだろうか、こいつ。
だから、僕は枕元にある目覚まし時計を掴み上げるとそのまま投げてぶつけた。
『いてえ!! 何をしやがる!!』
女性の甲高い声でなくなり地の声に戻っている。
化けの皮が剥がれているぞ。
「何をしやがるじゃないよ。……で、おまえは本当の僕の夢なのか、それとも僕の夢に居座っている本物なのかどっちなんだよ、サム・ブレイディ」
僕は女の裸の格好をした、顔だけがもとのままの殺人鬼に聞いた。
アメリカから来た夢の中に巣食う連続殺人鬼サム・ブレイディは、その姿のまま胡坐をかいて、不満そうに唇を尖らせた。
どうやら本当は女性の格好で僕を誘惑するつもりだったらしい。
バレていないとでも思っていたのか。
『ちぇ、てめえは本当に俺を怖がりやしねえ』
「そんなことはないよ。おまえみたいなのに憑りつかれているなんて、恐くて仕方ないところなんだけど」
『嘘つきやがれ。だったら、どうして俺の力が元に戻らねえんだよ。てめえに悪夢も見せられないし、頑張って悪夢っぽく動いてもすぐに見破られちまう。くそ、俺はてめえとキスをしたらその舌を掻っ切ってやる悪夢を演出するつもりだったのによ!!』
……その予定だったみたいだけど、最初から顔がいつものままだったので僕にはすぐにわかっていたので意味のない演出だった。
だいたい、もう妖魅としての力がないのだから、あんな真似をしたって効果はないだろうに。
『いーや、普通ならば悪夢をみせる努力をすれば、たいていの人間は俺を怖がって恐怖のどん底に叩き落されるはずだ!! なのに、てめえときたら……』
呆れる顔をする。
とても何十人、何百人を殺して、何千人もの恐怖の象徴となった死霊の殺人鬼とは思えない。
今のこいつは僕の夢の片隅でたまにちょっかいを出してくるだけの、無害な存在なのであった。
『無害とか言うな!! こんな姿でもなあ、てめえ以外のやつだったら時間を掛けて悪夢を見せて力を取り戻せるはずなんだよ!! それなのに、てめえときたら……』
そんなに泣きそうな声で言われても。
つーか、実際に涙をハラハラこぼしている。
泣かないでほしいな、人殺しのくせに。
まあ、今となってはただの残骸なんだけど。
「そういうのいいから。それよりも、おまえ、この世界は何?
『……ちげえよ。正確なところは俺にもわからねえが、てめえの
「変な世界?」
『おう。そのせいで、てめえに憑りついていた俺までくっついたまま来ちまった』
……というと、今の僕は魂だけの存在なのか?
魂と肉体が分離しているなんて、そんな馬鹿な。
つまり、それは幽体離脱でもしているということか。
サム・ブレイディの言うことなんてだいたい胡散臭くて信用できないのだから、素直に聞くことなんてあってはならないことだ。
でも、―――なんだろう、全身がぽわぽわしたこの感覚は……
とてもおかしな状態だということは僕にもわかる。
まるで身体がいつもの自分ではないみたいだった。
『そりゃ、そうだろう。力のねえ俺が実体化寸前なのは、この世界が不確定な概念だけの場所だからだよ。……とはいえ、畜生、てめえに殴られた程度でもう身体が維持できねえ……』
サム・ブレイディはいきなり空気が抜けた風船のように縮んでいき、気が付いたときには手のひらに乗るサイズの大きさになっていた。
女性の格好も止めて、例の黒い服とハンチング、そして白い仮面といういつもの服装に戻った。
たまに僕の夢に出てくるので疎ましく思っていた殺人鬼だった。
しかし、手のひらサイズだと乱暴に扱う気がしないな。
『くそ、これが限界かよ』
不貞くされている殺人鬼。
もうこの程度の力しか残っていないのか。
そのとき、
「おい、何か言ったか」
と部屋の扉を開ける人がいた。
明るい部屋の雰囲気に相応しい、綺麗な女性だった。
腰まで届く長い髪とやや尖っているが端正でいかにもな美人。
一瞬、モデルか何かかと思ったが、すぐに誰だかわかった。
とはいっても、僕の知っている人とはやや雰囲気が違う。
いつもよりも大人っぽい落ち着きがあった。
しっとりとした色気のようなものもある。
おまけに手に持っているのは、小型の掃除機とはたきだ。
「……えっと、もしかしてレイさん?」
「なんだよ、もしかしてって。おまえ、頭でも打ったのか」
「別にそう言う訳じゃないけど」
「寝ぼけてんなよ。そんなだと、会社に行ってもまともに頭が回らないで働けないぜ」
「会社?」
僕はまだ高校生なんだけど、どうして会社に行くんだ?
レイさんがいつもよりも大人っぽいのは、おそらく着ている薄手のシャツとカーディガンのせいだろう。
どこにでもいる普通の主婦のようだった。
ガテン系のような改造巫女装束でもないし、ヤンキーのような派手な私服でもない。
僕の知っている彼女とは全然違う。
そして、決定的なのは次に彼女が漏らした一言だった。
「まったく、
目が丸くなった。
えっと、誰が僕の女房だって?
もしかして―――レイさんのことなのか?
レイさんと僕が結婚したってことなのか?
いったい、どうなっているんだ。
本当に狐にでもつままれたような、サム・ブレイディの悪夢に踊らされているような、そんな気分の僕であった……
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