第54話「カウンター合戦」
バン
29階の〈鴻の間〉の照明のすべてが一斉に消えた。
全面ガラス張りの窓から月光が注ぎ込んでくるから、完全な暗闇という訳ではなかったが、通常人ならば狼狽して取り乱してしまうところであった。
だが、御子内或子は一度眼を閉じて視界を闇に慣らしただけで、特に動じた様子をみせなかった。
退魔巫女という職業を続けていれば、ラップ音や電灯が急に消えるなどよくあることだからだ。
むしろ、「そうこなくっちゃ」と闘志が湧いてくる。
或子はリングの下段ロープを掴むと、一跳びでマットに移動した。
結界の力が彼女に安心感を与えてくれる。
ここにいる限り、鍛え抜いた巫女ならばどのような妖怪とも渡り合うことができるのだから。
「来たかな……」
広間の出入り口に鋭い視線を向ける。
いつの間にか、一人分の隙間が空いていた。
入り込んでいるのか、それとも入ってくるのか。
「虚仮脅しの演出などでボクを怯まそうなんて無理な話だね」
或子はキャッチグローブを強めに握りこむ。
巫女が何もしなくても〈オサカベ〉が自分のテリトリーから降りてくることは異例中の異例だ。
侮りこそしないが、或子は怯みもしない。
おかしな事態などはこの仕事に就いていれば日常茶飯事だからだ。
鼓膜が震えた。
気圧が一気に落ちたかのような違和感。
隙間から手が伸びてきた。
青白い、爪の尖った女の手が。
そっと指で扉を押し広げる。
一切の音を立てない優雅な動作であった。
広間の扉はそっと開けはなたれ、一つの美影身を吐きだした。
現代では滅多に見かけない色とりどりの十二単をまとい、長く伸びたしっとりとした黒髪は腰まで垂れ、手にした黄金の扇子の輝きたるや宝石のごとく。
そして、白塗りの気品に満ちた美貌と眼差し。
やや下膨れなのは大和の
とはいえ、或子の視線を釘付けにするほどに神々しい。
「わざわざ、きてくれてありがたいよ。―――〈オサカベ〉の姫」
或子の言葉を無視するのかのように、〈オサカベ〉は唄うように喋った。
『あの方をわたくしに返しなさい。そこな巫女よ』
或子は眉を寄せた。
意味がわからなかったからだ。
あの方、とは誰だ。
そして、あの女怪の放つ敵愾心のオーラはいったいなんだ。
退魔巫女と妖怪が相いれない存在であるとしても、まだちょっかいもかけていない或子に対してここまで強い敵意を燃やす理由はなんだ。
(京一を行かすんじゃなかったか……)
或子は助手の少年を別の用事のために送り出してしまったことを後悔した。
妖怪退治の場において、よくわからない事態が発生したときには、いつも正確な答えを導きだしてくれていた少年がいないことの不自由さを感じたのだ。
愚直で直情径行の強い或子にとって、少年は公私において頼りになる存在だった。
彼がいないことによる弊害が生じてしまうほどに。
しかし、いないのであれば仕方がない。
戦いが始まれば京一のことだ、すぐに或子のところに駆けつけてくれるだろう。
初めて出会った時以来、或子の期待を少年が裏切ったことはないのだから。
「あの方というのに会いたいのなら、ここでボクを倒してからいくことだね。少なくとも邪悪な妖怪に好き勝手にさせるほど、ボクら退魔巫女は怠惰じゃあない」
『ほざくでないわ、この下女め。
「……ん?」
『許さぬぞ、許さぬぞ。妾を愚弄し、あの方を奪おうとする下賤ども!
気がつくと、マットの上に十二単の女怪が現われていた。
「何だって!」
咄嗟に突き出した右のストレートごと、或子の身体が一回転する。
投げられたと考えるまもなく、或子はマットにしたたかに叩き付けられた。
まさか、当て身投げとは。
その技の切れ味に或子は思わず舌を巻く。
合気道の達人と試合ったこともあるが、そのときに使われた小手投げよりもはるかにモーションが少なく力も入れられていないのにダメージが高い。
追撃のダウン攻撃がくるかとガードをしたが、〈オサカベ〉は彼女を投げた位置に突っ立ったままだ。
冷めた目つきで見下すだけでそれ以上は何もしようとしない。
(レイと一緒で立ち技での勝負を望むタイプか……。いや、違う)
或子はブレイクダンスのごとく両足の回転の遠心力で立ちあがった。
その間も何もしてこない。
「受け技特化型とみた。ボクの攻撃を読んで、最初から仕掛けておく当て身投げがキミの特技なんだね」
『わかったような口をきくな、下女め。そなたごときに妾を語られとうはないわ!』
〈オサカベ〉が前に出る。
とてつもない圧がかかった。
或子が仕掛ければ、確実にその後の後をとって投げられる。
かといって逃げる訳にもいかない。
巫女レスラーの或子にとっては厄介極まる相手であった。
『妾が手を出さぬと侮っておるな。では、これを見よ』
「!!」
手にした
巫女である或子にはその雅な道具にこめられた〈妖気〉が見えた。
そして、その妖気が地を這って自分目掛けて滑ってくるのも。
彼我の距離は数メートル。
認識したと同時に飛び退っても間に合わない。
人間の持つ限界反応速度は、約0.1秒である。
いつ来るかわからない刺激に対して待ち構えていた場合ならば、普通の人で約0.2秒と言われている。
ただし、「ある程度までタイミングがわかっている」状態であったのならば、これより短い時間で反応することも可能だが、それは「意識する」というタイムラグを無視できるだけの修練を必要とするのだ。
或子にとって、この〈オサカベ〉の攻撃は初見のものだ。
こんな技を使うという情報すらない。
本来ならば避けられるものではなかった。
しかし、或子には百戦錬磨の経験と野生の勘があった。
カメラ越しの視線にさえ気づく直観力は、ある意味では予知能力にも等しい。
だからこそ、この這いよって飛ぶ妖気の一撃を間一髪で躱すことに成功する。
放った当人の〈オサカベ〉が眼を剥くほどの回避速度を発揮して。
「だっしゃああああ!!」
隙の少ない攻撃ではあったが、妖気という練るのに時間のかかるものを放った分だけ、〈オサカベ〉の動きが硬直していた。
そのわずかな時間をチャンスとみて、迅雷のごとく或子は飛んだ。
稲妻の化身となって妖怪の胸部目掛けて突きをぶちこむ。
だが、当て身の技術をもち、妖怪ならではの不可思議な力でもって攻撃を受けきることのできる〈オサカベ〉は水のようにそれを受けた。
いや、〈オサカベ〉は咄嗟に悟っていた。
巫女の突きを否応なく受け止めさせられたのだと。
なぜなら、或子の本当の狙いはまず受け止めさせることにあったのだから。
相手が完璧に近いガードを誇るとわかっていたからこそ、受けられることを織り込んだうえで、さらにそれを上回る凄まじい肘打ちを相手の胸に叩き込む。
八極拳において「虎が硬い爪で山を掻き崩す」という意味があるといわれ、 本来ならば虎爪掌という手形で相手の体勢を崩す業だったが、或子は八極拳を適当に学んだだけなので動きそのものはただの格闘術だ。
だが、彼女にとってそんなものは関係ない。
これは沁みついた反復練習が或子の意識すら無視して選択した、最適解なのだ。
さすがの〈オサカベ〉もこれだけの速さの打撃を二度投げることはできない。
胸板に突き立てられた肘撃ちが妖怪を吹き飛ばす。
青いコーナーポストに背中をぶつけてようやく〈オサカベ〉は止まった。
間髪入れず追撃しようとした或子の足が止まる。
敵妖怪の手の扇子が構えをとったのに気付いたからだ。
またさっきの妖気がくる。
クロスカウンター気味に食らえば今度こそ避けられない。
だから、いったん止めたのだ。
同時にカアアアアンというゴングが鳴った。
序盤の小競り合いは終わりだ。
白いマットのジャングルの上で、巫女レスラーと天守閣の妖怪姫はまさに死闘を演じるために睨みあった……。
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