第66話「剣風荒れる」
その女は、どう見ても普通の大学生としか思えない服装だった。
色の落ちたウォッシュジーンズと、しまむらで買ってきたかのような地味な色合いのトレーナーを着て、髪もゴムで留めただけの化粧なしのスッピン。
若い娘でなければ主婦といってもいい出で立ちであった。
ただし、その手に持つ異物だけを除いて。
「あんた、それ……」
いきなり道場の入り口に姿を現した女が手にしているものを、長田大輔はよく知っていた。
黒い拵えの鞘とその中に納められているであろう鋼の刃。
間違いなく日本刀だ。
両手に一本ずつ握っている。
しかし、持ち主の見た目とのギャップが凄まじい。
普通の女子大生と日本刀。
どんな漫画だ、と叫びたくなるような組み合わせだった。
『あんたが、今の日ノ本の……学生とやらの天下一かい?』
女の口から聞こえてきたのは、異常なことにとても低い男の声だった。
自分の耳がおかしくなったかと思う。
もしかして、女子大生のように見えるが実は男であったのか、と思わず疑ってしまったほどに。
しかし、トレーナーの胸の部分の膨らみは女のもののように豊かだ。
「ここは、うちの大学の道場だ。ふざけたことをするのなら、女であろうと叩きだすぞ」
長田は警告した。
独りで練習していたせいもあり、何か厄介ごとを持ち込まれたら、いくら主将の彼でも責任をとらざるを得ない。
手にしていた竹刀を突き付ける。
『国土院大学の剣道部四年、長田大輔。大学選手権を二年連続で奪う。……肩書には今一つ馴染めねえが、まあその玩具を持つには相応しいぐらいには、強そうだ』
「なんだと?」
挑発……されているのか。
長田は訝しんだ。
自分のことを知ってはいるらしいが、それにしても大学選手権を二連覇した名選手相手にするには恐れを知らない態度だ。
得体が知れないのではなくて、ただの馬鹿なのか。
それとも……
『使え。おれのものほどじゃあないが、それなりの業物だ。おまえぐらいの腕ならば使いこなせるだろうさ』
足元に鞘ごとの日本刀が転がってきた。
こんな玩具をどうするつもりだと退かそうとしたが、予想を超えてはるかに重い。
居合の稽古で使う真剣のようであった。
思わず抜き放ってみて、初めてわかった。
女が寄越した日本刀は本物であった。
しかも、刃は潰されていない。
紛れもない真剣。
「……なんだ、これは?」
『それぐらい使えんだろ? 日ノ本の剣人なら』
「どういうことだ?」
『まだ、わかんねえのか? おれと果たし合えということだよ。わざわざおめえのために控えの刀まで用意したんだからよ』
長田はすでにこれが夢でも冗談でもないことを悟っていた。
女から吹き付ける剣気が、彼を逃げることも避けることもできない決闘の嵐のように包み込んでくる。
生か、死か。
ここにあるのは間違いなく死を掛けた決闘の風圏であった。
「殺し合いをしろと……」
『果し合いだよ。おれとおめえがどちらが強いかのな』
「ちょっと待て、今は平成だぞ。決闘なんて……」
『グタグダ言うな。平成だろうが慶安だろうが、そんなこたあどうでもいいんだよ。おれたちがやり合う理由はただ一つ。どっちが上かということだけだぜ』
女の言うことは時代錯誤すぎてついていけなかった。
だが、それでもわかることはある。
物心ついた頃から剣道を学んでいたこの道二十年の長田だったからこそわかることが。
(あいつの剣気は本物だ。しかも、文句なく強い)
長田は鞘から刀を抜き、そして青眼に構える。
鞘は捨てた。
剣道家である彼にとって鞘は特に必要のないものだからだ。
その様子を見て、女はせせら笑った。
『―――ったく、しょうがねえな。左胴を抜かれたらどうすんだよ。まったく、前の奴もそうだったが、今代の剣士は立ち合いをわかっていねえ』
そう苦言を呈すると、女は持っていた刀を腰に巻いていた帯に差して、すっと引き抜いた。
二尺四寸の常寸の刀を苦も無くすらりと。
それだけで技量が窺える。
抜刀は手の動きだけでするものではない。
腰を回してするものだ。
何の抵抗もなく、また無音で鞘走らせることができる。
ただそれだけで実力が推し量れる。
あの男の声で喋る女は、紛れもなく本物の剣士であった。
「ぬぅ」
長田は青眼のまま。
真剣で斬りあったことなどない。
だが、剣士としての本能が彼を奮い立たせる。
このまま、あの女を斬り殺して刑務所に行ってもかまわない。
これまで培ってきたすべてのものを失くしたとしても後悔しない。
なぜなら、あの女は彼の大事なものを奪おうとしているのだから。
彼を彼たらしめている決して譲れない部分―――
剣士としての執念を。
心臓が破裂せんばかりになる。
全身の血が凍り、骨肉すべてが岩のように固まる。
奪われてなるものか。
俺の人生のすべてといっていい剣道に掛けた情熱をこんなところで。
だが、それと同時に滾ってもいた。
命がけの戦いに挑む剣士の野生が魂を脈づかせる。
『はは、いい感じだぞ。もう少し剣に慣れたおまえとし合えたらもっと良かったかもしれねえ。ただ、それぐらいでいいか。……うちの当代とやり合う前の相手としてはな』
「……」
もう挑発は聞かない。
何を言っても無視する。
ただ、ただ、集中して、没頭して、剣気を昂ぶらせる。
長田は相手が女であることも異常な状況もすべて忘れた。
戦いの次元に入り込んだ。
そして、そのままするすると滑るような足運びで前へと進む。
これまで何百もの同年代の剣士を地に這わせてきた必殺の面が、裂帛の気合いとともに振り下ろされる。
長田の前進を女は愉しそうに見つめていた。
剣は切っ先を下にだらんと下げている。
一瞬、下段の構えかと思ったが、それにしては自然体すぎる。
とても構えには見えない、まるで彼を舐めきったかのような構え。
しかし、長田にはわかっていた。
これこそがこの女の、応変に処するための最善の構えなのだと。
長田の怒涛のごとき一撃がぶつかろうとしたとき、女の剣尖がぴいっと鶺鴒の尾のように上がり、煌めく。
同時に長田の右の拳が切り裂かれた。
まるでボクシングのカウンターのように剣と共に振り下ろした柄を握る拳を斬られたのだと、剣士としての二十年が彼に伝える。
もう竹刀さえ握れないとわかったが、実のところ、長田は満足していた。
すべてを失くしたとしても得るものがあったからだ。
今の一瞬の攻防の充実感。
生きているうちには絶対に味わえないかもしれない高揚感。
それを体感できたからだ。
痛みによって意識が消えていく刹那―――女の声が耳に残った。
『おまえ、強いなあ。侮辱して悪かった。今代にもおまえぐらいの剣士がいるとは、なかなか捨てたものではない。いや、舌を巻いたぞ』
……自分の右手を奪ったものの言葉を、長田は歓喜と共に生涯忘れることはなかったという。
◇◆◇
「大学二連覇のチャンピオン、古流の剣術家、居合道の名のある範士。―――それらがここ二週間で立て続けにやられているのだ。まるで江戸時代の辻斬りだ。さすがに、おれたちも動かざるを得ない」
美厳さんの言葉には、苦いものが宿っていた。
それはそうだろう。
彼女の説明からすると、下手人と目されているのは、彼女たちのご先祖様を名乗っているのだから。
「柳生十兵衛ね。―――本物なのかい?」
「さあな。死んで何百年もたってから化けてでるようなご先祖様だとは聞いた覚えがない。なあ、冬弥よ」
「はい。わたくしも、
「まあ、血の繋がった子孫が言うんならそうなんだろうけど……」
なんとも驚くような発言が飛び出す。
柳生というだけで僕の頭に浮かんだのは、有名なあの剣豪だというのに、美厳さんたちはその正統な子孫なのだという。
確かにこの広大なお屋敷を見る限り、世が世なら一万石の大名となった柳生家のお姫さまと言われれば納得するかもしれない。
もっとも、僕としては多少腑に落ちないところもある。
僕が時代劇から得た程度の知識だと、柳生新陰流の柳生は江戸と尾張にあるのが基本で、この多摩に末裔がいるなんて聞いた覚えもない。
それに柳生十兵衛は奈良県にある柳生家の領地で死んだはず。
こんなところに遺領があるなんて話も知らない。
だが、美厳さんたちが偽物とは到底思えなかった。
いったいどういうことだろう。
「で、その十兵衛が憑りついた女というのは、どうなったんだい? キミらの配下だって無能じゃないんだから、きちんと調べているんだろ」
「一昨日発覚した、これまでのところの最新の犠牲者がこの正木道場の場所を教えたんだそうだ。おそらく、今日か明日にはここに辿り着くだろうな」
「そこで、ボクを呼んだ、と?」
「ああ」
すると、御子内さんは正座をしていた足を崩して、
「なんだ。自分たちの先祖の後始末もできない奴の尻拭いをさせられるのか。まったくもってつまらない仕事だね」
「……御子内さん」
「だってさ、京一。剣士だったら剣士が対処すればいいじゃないか。ボクが
珍しく態度の悪い御子内さん。
美厳さんと反りが合わないということもあるだろうが、かなり彼女らしくない。
いったいどうしたんだろう。
「或子さま」
冬弥さんが声をかけても、御子内さんはだらしない態度を改めない。
さすがに僕が言うべきなのかなと思った時、
「―――剣士が剣士とやりあわないなんて、なんという自己矛盾だい。ちゃんとした理由があるんなら最初から腹を割って話しなよ。美厳、言っておくけどね、ボクは隠し事が嫌いなんだ」
御子内さんが眼を眇めた。
冷たい、すべてを見透かしたようなまなざしだった。
「ふん。おまえの言う通りだ、或子。わざわざ、おまえというか退魔巫女を呼び出したビッグな理由がある」
逆に美厳さんは悔しそうだった。
「それはなんだい?」
「簡単な話さ。―――おれたち、柳生としては何としてでも今回の亡霊の使っている刀を取り戻したいんだ」
「刀? また、どうして?」
美厳さんは言った。
「三池典太光世。―――今、うらめしやをやってるご先祖様が遺した大業物なんだわ。これが、なんと昭和の初めに遺失した
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