第340話「人の恋路も邪魔しなければならないときがある」



 白いマットの上に降り立った〈人狼〉は、紛れもなくオオカミそのものでした。

 こんなものを一度でも投げたというだけで、俺は師匠に頭を撫でて貰えるに違いありません。

 あの殊勲のときは、まだ普通のストーカーではないかと思っていたおかげで肉体がスムーズに動いたのですが、相手が完璧な怪物だとわかってしまったら、同じように動いてくれるとは限らなくなります。

 少なくとも、この〈人狼〉のまともではない素早さと敏捷性に対応できるかは難しいところでしょう。

 俺が習った柔術はあくまで人間相手の業であり、かつ、表技の抜刀術の添え物として編み出されたものであるから、刀を腰に差した状態でこそ真価を発揮する技であるのだから。

 この〈人狼〉を倒すなんて、素手どころか武器を持っていても至難の業でしかないと思いました。

 しかし、次の瞬間、どこからともなく、


 カアアアアン


 という鐘の音―――いえ、ゴングの音でしょうか、そうとしか聞こえないものが鳴り響いたのです。


「二人ともすまないな!!」


 別段ぼおっしていた訳ではありませんが、俺と亜香里は御子内後輩に蹴り飛ばされてリングの外に落下していきました。

 尻からみっとみなく落ちたので、とてつもなく痛い思いをしてしまいます。

 その俺たちを追って、〈人狼〉が向かってくるのですが、どういう訳か恐ろしい怪物はリングに張られたロープを掴んだまま、やってこようとしません。

 俺たちを睨み続けて入るのですが、それ以上は何もしてこないのです。

 何が起きたかもわかりませんが、直観的にこの〈人狼〉はもう俺たちを追うことができなくなっているのだと悟りました。

 何故か?

 それは御子内後輩が説明してくれた通りなのでしょう。

 このプロレスのリングにしか見えない場所に張られているという結界のせいなのだと思います。

 これが、まるでごきぶりホイホイに入ったGが逃げられなくなるように、スポイト型の罠に入ったウナギが抜け出せなくなるように、一度取り込まれてしまったら易々とは外に出られなくなるようになっているのでしょうね。

 だから、目の前に俺たちがいるというのに、歯噛みするしかない〈人狼〉は牙を鳴らしながら威嚇を続ける。


「ひぃっ!!」


 執拗な脅しと威嚇に、亜香里は尻もちをついたまま動けなくなったみたいです。

 腰が抜けてしまったのでしょう。

 一メートルも離れていない頭上から、カチカチと鋭い牙の鳴る音と咽喉から捻りだされる唸り声は、動物園で猛獣の檻の扉が開いてしまっているぐらいに命の危険を感じさせました。

 

「―――大丈夫だ、亜香里。こいつはそのリングから降りられない」

「でも!!」

「大丈夫だ!! だから、大丈夫だ!!」

「そう―――大丈夫さ!!」


 ロープ越しに手を伸ばして爪で引っ掻こうとする〈人狼〉の首根っこを捕まえて、気合いとともに後方へ投げ飛ばし、ロープの反動で返ってきたその胸板にドロップキックを放った御子内後輩が叫びました。


「妖怪退治はボクの仕事さ。キミたちは黙って観ていてくれればいいよ!!」


 倒れた〈人狼〉の首筋目掛けて、足を落とすギロチンドロップをかまそうとするが、一足先に立ち上がった怪物に足首を掴まれて放り捨てられる。

 後輩が見掛けよりも軽いというより〈人狼〉が馬鹿力なのでしょう。

 それでも、トンボを切って着地するところに、巫女というよりも軽業師的な体術を感じさせます。

 というか、本当にあの子、素手で〈人狼〉と戦う気ですよ!

 冗談半分に聞いていましたけど、まさかマジで本音100%だったとは思いませんでした……


「だっしゃあああ!!」


 御子内後輩は地刷りの歩法で近づくと、〈人狼〉の腹目掛けてナックルをかまします。

 でも、俺が見ている限りでも、〈人狼〉の腹筋はかなり堅そうです。

 とてもじゃないが、御子内後輩の細腕では蚊が刺したほどにも通じそうにない……

 はずだったのに、なぜか、激しく〈人狼〉が後方にのけ反りました。

 何が起きたかはわかりません。

 ただ、自分自身の眼を信じるというのならば、〈人狼〉が下がったのは御子内後輩の打撃をまともに食らった衝撃のせいだと思います。

 つまりは、それだけ御子内後輩の打撃力が腹筋の防御力を上回ったということなのです。

 あり得ない、と俺は舌を巻きました。

 なぜなら、実際に掴んで投げた経験から言わせてもらえば、〈人狼〉の身体は表皮も含めてとんでもなくしなやかで堅いのです。

 それをぶち抜くパンチなんて。

 しかも、御子内後輩は高校一年の女の子なのですから。


『キサマ!! ジャマスルナ!!』


〈人狼〉が吠えました。

 さっきの中国語とは違う、訛りこそあるが十分に聞き取れる日本語でした。

 ジャッキー・チェンの映画でも観ているかのような光景です。

 狼そのものとなった声帯から人間の言葉を無理矢理に引き出しているようにも感じました。

 野生の獣のものとは違う、明確に人間の憎悪を吹きださせて襲ってくる〈人狼〉の圧力を真っ正面から弾きかえして、御子内後輩は言葉をぶつけてきました。 


「女に惚れたってんなら、きちんと前から行くべきだね。前から行く機会を見つけるために四苦八苦するのも恋愛の醍醐味だろうけど、相手のことを無視して自分勝手に暴れまわるのは、恋とは言わない。それはただの執着だ。独りよがりの妄念だ。恋愛は絶対に美しいものではないけれど、綺麗なものと信じることをボクは推すね。相手が自分の思い通りにならないからといって、暴力を振るったり競争相手を排除したりするのは、亜香里を不幸にするだけでしかない。まして」


 そして、御子内後輩は構えました。


「キミのやっていることはただのストーキングだ!! どうやって大陸から日本に渡ってきたかは知れないけれど、この国ではね、女を誘拐して嫁にするような真似は決してゆるされないんだよ!!」


〈人狼〉の返事は一つ。

 雄叫びを上げて、自分に説教をする娘を殺そうとすることだけでした。


『打死你ァァァァァァ!!』


 再び、〈人狼〉は中国語で何やら叫びました。

 おそらく、「死ね」とか「殺す」とかその類いでしょう。

 一度、四つ足に戻ってから陸上のクラウチングスタートのように身をかがめながら〈人狼〉はダッシュを駆けていきました。

 襲い掛かる両の前肢。

 鋭く尖った爪と牙の三段攻撃。

 右……左……そして牙。

 それらをなんと紙一重で避けると、御子内後輩は〈人狼〉のバックに回り込み、胴体を抱え込みます。


「フン!!」


 そのままへそで投げるカール・ゴッチ式のバックドロップ。

 前傾姿勢であるためか、首筋から見事にマットに叩き付けられた〈人狼〉が痛みで吠える。

 ダウン攻撃はさっき防がれたことから用心してか、巫女は今度は〈人狼〉が立ち上がろうとするのを待ってから、回し蹴りを放った。

 左前肢を曲げてガードしようとした〈人狼〉の意図を掻い潜るように、右からの蹴りは軌道を変化させて、まるで平仮名の「て」の字を書くように逆方向から命中しました。

 見覚えがあります。

 あれは空手の「掛け蹴り」です。

 あんな高速で変化する軌道は全国大会でも見たことがありませんでした。

 この段階でようやく俺も御子内後輩がガチであの〈人狼〉と素手でやり合おうとしているということが理解できました。

 

 それがどれだけ無謀なことか、かつて人間の世界に潜んでいた怪物に病院送りさせられたこともある俺からすると、よくわかります。

 このリングの形をした結界のおかげかもしれませんが、それでも素手で戦うなんて無理・無茶・無謀の暴走行為です。

 今になってやっとわかりました。

 さっき、部屋にやってきた初対面の彼女の言うことに従って、籠城していたはずなのに外に出てしまった理由が。

 あの巫女の少女のまっすぐで熱い瞳を信じてしまったからでした。

 彼女にすべてを任せてしまってもいいと委ねてしまったのです。


 ただ、それは少しだけ間違っていました。


 俺の後輩である御子内或子は、まだ経験がなかったのです。


 この〈人狼〉との戦いが、彼女にとって初めての独り立ちの戦いであり、命を賭けた死闘としての妖怪退治の初陣でもあったのです。

 その経験のなさが、戦いが長引くにつれて顕著になっていきました……

 

 

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