第339話「死闘突入」



 数時間前に立川駅の改札口で見掛けたときは、まだ普通の人間の面影を宿していたのに、今のあいつは完璧に人の真似をしたケダモノという形でした。

 ホロボロのトレンチコートをはちきれんばかりの筋肉で押し出し、前かがみというか、四つん這いの格好で幼稚園の学び舎の屋上からこちらを見下ろしています。

 赤ずきんちゃんなら、「どうしてお祖母ちゃんのお口はそんなに大きいの?」と聞いてしまいそうなぐらいに耳まで裂けた獣の口から、牙と多量の涎があふれ出ていました。

 映画のCGのぬるりとした動きとは違う、あえて例えるのならばドキュメンタリーの動物ものを観るような不思議な感覚でした。

 ただ、それでも言えることは、あいつには今まで俺が遭遇してきて怪異と同様に現実感を与える凄味があるということです。

 どんよりと濁った黄色い眼に睨まれると、無我夢中で逃げ出したくなるような。

 俺がさっきあいつを古武術で投げ飛ばせたのは、咄嗟だったことと、多摩とはいえ人の多い駅の改札で、まだ表の太陽の満ちた世界に踏みとどまっていられたからだったのかもしれません。

 はっきりいって、夜になって満月を背景にして立つ、幻想的かつ圧倒的な恐怖の存在を目の当たりにしてさっきと同じ真似ができるとは思えませんでした。

 それは亜香里も一緒です。

 いや、俺なんか比べ物にならないほど恐ろしいかもしれません。

 完全にあいつのターゲットとなっている彼女にとっては、もう自分を抹殺に来た死神そのものにしか映らないはずです。

 しかも、彼女からしてみれば、ただ炊き出しでカレーを配ってあげただけで、本来ならなんの接点もない相手です。

 一目惚れとかそう言うことだと思いますが、狼もどきの怪物らしく匂いを追って、女性の回りを文字通りに嗅ぎまわり、家の中に勝手に入り込んだ挙句、厭らしい欲望を遂げようとしているのは、あいつの勝手であって亜香里にはなんの罪もないことなのです。

 ごく普通のイベントの主催者側にいただけで、亜香里はあの狼男に好意をしめしたわけでもないのに、独善的な思い込みで彼女の周囲を徘徊し、探り続ける変質者でしかない。

 あの狼男は、怪物であるという一点を除けば、ただのストーカーなのです。

 最初は優しい眼をしていたと亜香里は言っていました。

 でも、それはきっと気のせいです。

 彼女に対して狼男が持っていた好意を亜香里が読み取ってしまっただけ。

 一目惚れの片思いといえば聞こえはいいかもしれませんが、あいつは俺が彼女と合流して話を聞こうとしただけで勘違いして正体を見せてしまうぐらいに独善的な怪物なのです。

 あんな奴に亜香里を渡してはならない。

 俺はそう決めて、子供の頃から習っていた古武術・室賀流柔術の構えを取りました。

 勝てるなんて思えません。

 でも、理不尽に傷つけられる女性ひとがいたら絶対に助けなくてはならない。

 室賀流の始祖のように、俺は戦う決断をしなければならなかったのです。

 ところが、そんな俺をはるかに飛び越すようにして、


「いいかい、キミたち二人は囮の餌だ。あいつがこの〈護摩台〉に入ってきたら、すぐに転がって外に逃げるんだ。大丈夫、一度、この中に上がってしまえさえすれば、条件を満たさない限り、キミたちを追うことはできなくなる」


 御子内後輩が断言しました。

 つまり、彼女のいうことを真に受けるというのならば、このプロレスリングにあの〈人狼〉は閉じ込められるということなのでしょうか。

 もっとも、気になることがあったので俺はもう一つ質問を重ねました。


「条件ってなんだ? あいつがなにをしたらここから逃げ出してしまうんだ?」


 永遠に閉じ込められるとは思えないけど(それだと封印という言葉を使いますよね)、なんとなく気になってしまったのです。

 

「うん、簡単だ。ボクを倒すことさ」

「えっ?」

「この〈護摩台〉の中に入った妖怪は、このボクと一対一の戦いをして勝たねば外にでることはできないんだ」

「……妖怪と戦う? 一対一で……? 誰が、誰と? え、何を言っているの或子ちゃん」


 俺たちは御子内後輩の言うことが欠片も理解できませんでした。

 ?


「誰がって、ボクに決まっているだろう。このボクの技と力があいつを打ち砕くんだよ!!」


 拳を握り、こちらに見せつける御子内後輩。

 疑う余地もなく彼女はあの狼男とタイマンを張ると言っているのでした。

 あまりのことに唖然としている俺たちを尻目に、御子内後輩は狼男に対して指を突き付ける。


「さっさと降りて来い、妖怪変化め! キミの御執心の彼女とその彼氏はここにいるぞ!! そんなところで寝取られ男コキュ気分でいて楽しい訳がないだろ?」


 別に俺は亜香里の彼氏でも男でもないのですけど……


「……何をする気なんだ?」

「この〈護摩台〉はね、人間と妖魅との力の差を限りなく五分フィフティにまで下げてくれる結界が張られているんだ。この中でならば、普通ならば為すすべもなく殺される人間でもあの怪物たちと渡り合えるようになる」

「妖怪と正面から戦える……?」

「ただし、この中ではボクたち退魔巫女が昔々から使っていた巫術や導術の類いが効かなくなってしまうんだ。この祓串はらいぐしやおふだでさえほとんど効果を発揮しないという不利益が生じる。だから、ボクらは妖怪と素手でやり合わなければならない。―――でも、負けない」


 御子内後輩はにやりと牙を剥きだす。

〈人狼〉もかくやという程の獰猛な笑顔でした。


「先輩も、キミの柔術であいつと戦えるけど、どうだい?」

「―――あいつと素手で……?」

「おや、少しやる気みたいだね。でも、やめておいた方がいい。さすがに普通の人間ではあいつら相手では厳しい。ボクらのように鍛え抜かれた媛巫女でなければ、妖怪変化をぶっとばし、押さえつけてフォールを奪うことはできないからさ」


 ワオォォォォォォォォォォォォォ!!!


 屋上にいた〈人狼〉が飛び降りて着地しました。

 音が一切しない身軽さを披露してきます。

 そして、四つ足で一気に運動場を駆け巡り、このプロレスリングの周囲を二周してから、バネでもついているかのように物理法則を無視したような跳躍をする。

 前に向いて走っていたはずなのに、一瞬屈んだと思ったら、真横に九十度跳ねあがって飛んでいたのです。

 次の瞬間には、リングの頭上に〈人狼〉は跳ね上がったまま、俺たち―――いや、亜香里めがけて大口を開きます。

 牙がずらりと並んだ狼の口腔。

 赤く見えるのは舌でした。

 ついに狼は付き纏っていた赤ずきんを喰らおうと襲い掛かってきたのです。

 ですが、その恐るべき襲撃は下から撥ねあがったパトリオットミサイルのようなキックによって吹き飛ばされます。


「キミの相手はボクだよ、〈人狼〉め」


 御子内後輩のコンパスの足が左右に開き切ったかのような蹴りは、確実に〈人狼〉の顎を捉えていたことに、柔術の心得がなければ気が付かなかったかもしれません。

 ただ言えることは、妖怪と一対一で素手で戦うと宣言するだけあって、なんとも美しく体重の乗り切った蹴りでした。


『打死你!!』


〈人狼〉が何かを叫びました。

 それは俺の乏しい知識でもわかります。

 この怪物はおそらく本当に中国大陸からやってきた〈人狼〉だったのです。


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