第338話「妖怪〈人狼〉」



 御子内後輩が俺たちを連れてきたのは、少し歩いたところにある幼稚園の前でした。

 昨今の幼稚園は、様々な外的要因から園児たちを守るために、柵やらネットやらが張り巡らされ、一種の檻のようにさえ見えます。

 もっとも、あの狼男の恐ろしさを体験している俺たちにとっては、ここに来るまでの移動に気を取られ過ぎていました。

 

「先輩は、あの自分の部屋で迎え撃つつもりだったのかい?」

「まあね。下手に逃げ回るのは危険かもしれないからさ。立川駅からはタクシーを使ったから、すぐには追ってこれないとは思っていたけど、だいたいおかしな奴って行動力がハンパないものだし」

「〈人狼〉の嗅覚は狼そのものよりは劣るけれども、人間の何倍というのは伝わっているね。中島敦の「山月記」のモデルになった〈人虎〉でさえ、一つの山を越えた先から臭いだけを頼りに獲物を追跡できたというほどだ。同じ、虎狼の類いだとすると〈人狼〉もそうとなものだと思う。タクシーでの移動では時間稼ぎがいいところだろう」

「―――その〈人狼〉ってなんなんだい?」


 俺の疑問に対して、御子内後輩は答えてくれました。


「お隣の半島とそこに繋がる大陸に巣食う、妖魅―――化け物の一種だね。普段は人間の姿をしているが、狩りのときになると踵のない獣の姿になる。踵というのは、人間の理性の象徴だという説もあるから、おそらくはその具現化なんだろね。心のないケダモノってことかな。だから、先輩のいう狼男でも間違いはない」

「踵が理性の象徴ね…… 鬼が三本しか指がないというのと一緒かな」

「よく知っているね。さすがは元生徒会書記。優秀だ」

「生徒会なんて雑用の処理がうまい奴がなるところさ。優秀かどうかは関係ないだろ」


 少なくとも俺の価値観ではそんなところなのです。

 全学年の最優秀生徒トップガンで構成されたエリートグループなんて漫画の中でしかありえません。


「優秀さ。見ず知らずの人間に助けを求められて、我が身を省みずに駆けつけてしまうぐらいには、人間としても上等だしね。ボクは先輩の後輩になれて良かったと思いかけているところだよ」


 御子内後輩はこっ恥ずかしいことを口にしながら、幼稚園の門を勝手に開けてずかずかと入っていきます。

 よく見ると、施錠されていません。

 鍵を掛け忘れたというのではなく、最初から開放されていたという感じでした。

 この幼稚園と御子内後輩の間にどんな関係があるのでしょうか。

 疑問を感じつつもついていくと、普段ならば園児たちが黄色い声をあげながらお遊戯をしたりする運動場に出ました。

 そこで俺は信じられないものを見ます。

 なんと、それは……


「プロレスの……リング……?」


 6メートル四方に鉄製の柱が立った白いマットが、やや盛り上がった台の上にセットされていて、柱にとりつけられた器具から三本のロープが張られています。

 体育の授業で使用するようなマットがそれぞれ四方に並べられていて、仮にマットから落ちても大丈夫そうでした。

 しかし、俺の感覚では天地がひっくり返ってもプロレスとかで使用されるリング以外にはありえないものなのです。

 俺たちいつのまに新日本プロレスを観戦しにやってきてしまったのでしょう。

 おかしい。

 狼男―――〈人狼〉に追われているはずの俺たちはどうしてこんなものに遭遇してまっているのでしょうか。

 だって、ここは幼稚園の運動場のはずなのに。

 ところが俺たちを案内してきたはずの御子内後輩は、このリングの上で受身をとったりロープのテンションを確認する作業したりして、まったく平然としたものでした。

 さっきは異様に感じた黒い靴はリングシューズだったのか、とても馴染んでいるように見えます。

 それどころか、マットの上でウォーミングアップをする彼女は完全に自分のホームであるかのように堂々とした振る舞いなのです。

 いったい、何があれば……こんなことになるのか。


「朋輪くん……私、何が何だか……」

「それは俺も同じだね。この非日常的な世界についていけてない」

「―――よし、悪くない出来だ。けっこうきちんとした結界になっているようだね」


 満足気に少し汗を流しながら御子内後輩は降りてきました。

 俺たちの前に立ち、


「この〈護摩台〉を設置する場所にキミたちを連れてくるまでがわりと賭けだったんだが、何も起きなくてラッキーだったよ。この〈護摩台〉というのは、妖怪の力をボクらと五分フィフティにする結界でね。これがないと、今のボクではまともに正面切っては戦えないんだ」


 彼女が白衣の袂から祓串はらいぐしを取り出して、フンと振るとなんだか空気が澄んでいくような錯覚を感じました。


「空気を正常化した。これでキミたちも少し落ち着いただろう」

「それはなんなの?」

「練気した〈気〉を祓串の紙垂を使って拡散したのさ。神経が昂ぶっている人間には効果がある。どうだい、楽になったはずだ」

「う……ん、さっきまで吐きそうだったのに楽になったわ……」

「ならいい。ただ、妖怪退治のために拳と技だけでなくて、こういう術も使わなくてはならないというのはまったくもって腹立たしいが、ボクもまだまだ見習いから抜け出たばかりだから仕方ないか」


 呆気に取られていた亜香里が口を開いた。


「ねえ、或子ちゃん。この……リング……」

「〈護摩台〉のことかい?」

「えっと、ご……まだい? でもいいんだけど、これって誰が用意したものなの? こんなところに作っちゃっていいの?」


 そうでした。

 プロレスリングがあるということだけでなんとなく麻痺していましたが、実のところ、問題は他にもいくつかあって、亜香里が聞いたのはそのことなのです。

 もう色々なことがごっちゃになっていて仕方がない状況でした。


「この〈護摩台〉を用意したのは〈社務所〉の男衆だ。人手が足りなくてボク一人の専属って訳にはいかないにしくてとても面倒だけど、その分結界としての効力はお墨付きだね。妖怪を越えた半神相手でもいいところまでいくらしいし。で、ここに作ったのは広い場所が、あのマンションの傍ではここしかなかったからかな。普通は神社の境内や公園を使うんだけど、幼稚園ってのは初めてだ。まあ、子供たちの陽の気が残留しているから意外といい場所かもしれない。今度、御所守の義祖母ちゃまに幼稚園の運動場の積極的使用を意見具申してみようかな」


 こちらが口を挟む間もなく、御子内後輩は色々と教えてくれたが、ほとんど意味が分からなかったです。

 それぞれの単語の意味はともかく、世界観とか、たぶん、そういった類のことですね。

 俺もかつてオカルトに何度も遭遇したことがありますが、はっきりいって想像もできない世界が世の中にはあるようでした。


「じゃあ、二人とも上に登ってよ。おそらく、もうそろそろ〈人狼〉がやってくる」


 御子内後輩は空を指さしました。

 美しい満月が浮かんでいます。


「満月の下の〈人狼〉は手強い。伝説の通りに。……能力が比類ないレベルにまで上がるからさ」


 確かに俺の知っている限りでも満月というのは狼男に凄まじい力を与えるって言いますけれど……


「つまり、こうやって満月が出ているときの〈人狼〉は臭いを嗅ぎ取る力も強くなっているはずさ。……そらね」


『ウォォォォォォォォォォォォォン!!』


 以前、聞いた雄叫びが物理的な衝撃を与えるように轟いてきました。

 幼稚園の校舎の上に、そいつはいました。

 さっきのように人間になる寸前ではなくて、ほぼ完全に上半身は狼そのものになった怪物ホームレスが。

 満月を背にして、俺たちを見下ろしています。

 血の色をしていました。

 俺たちの喉笛を噛みきるためにペイントを用意したかのごとく。

 本物の怪物が襲い掛かろうと迫ってくるのです。

 ですが……

 だけど……


 御子内後輩は、


「さあ、勝負だ、〈人狼〉! ボクが最強のチャンピオンを目指すための第一歩となってもらおうか!!」


 と、敢然と雄々しく宣言するのでした……


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