第337話「恐怖の遠吠え」
「私が、あの男性を初めて見かけたのは、大学のサークルで参加した炊き出しボランティアのときでした」
尾野屋亜香里がぽつぽつと喋りだしました。
もともと俺は彼女の従妹から聞いていたのですが、本人の口からというのは初めてです。
何故かというと、亜香里と落ち合ってすぐにあのストーカーの狼男に襲われ、逃げたり、隠れたりするのに精いっぱいだったからでした。
もう少し余裕があったら、俺も彼女に水を向ける余裕ぐらいはあったでしょうけど。
「炊き出しといっても、地震とか災害の被災者相手のものではなくて、ホームレスとかそのたりの人たちも含めて、100円でカレーをお腹いっぱい食べてもらおうっていう企画なんです。わりと有名なカレー専門店に協力してもらって、本来なら700円はするものを安く配ろうって感じの」
「ふーん、でも、それって何か意味があるのかい?」
「寄付を募るということと、いざというときの災害ボランティアの練習みたいな感じですか。もともと、東日本大震災の311のときにボランティアを体験した人たちが立ち上げたもので、これから何かあったらすぐに駆けつけられるようにということなんです」
だいぶ後のことになりますが、このボランティア活動をしていた団体は2016年の四月におきた熊本の地震のときなどに炊き出しの活動に出向いています。
このカレーのときの経験が活かされたのは間違いないようです。
まあ、閑話休題ですが。
「なるほど。キミはその模擬炊き出しの手伝いをしていたという訳だね」
「はい。私はカレーをよそる役をしていたのですが、そのときに彼がやってきました」
「ふむふむ、続けて」
御子内或子と名乗った、俺の高校の後輩にあたる子は、まだ学生らしいので二十歳の亜香里からすると二、三歳は下のはずだが、力関係のものは完全に逆転しているようでした。
偉そうな態度というのではなく、人間としての強度のようなもので遥かに上回っているのでしょう。
だから、亜香里は促されるままに年下の御子内後輩に説明を続けていました。
「実際、彼のことを覚えているかといったら曖昧なんですけど、この炊き出しは二か月に一度の割り合でやっていて、なんとなく前にもこの人来たなあ程度の記憶には残っていました」
「貰って、食べて、また並ぶみたいなことはしなかったんだ」
「さすがにしていたら、私以外にも覚えていたとは思います。ただ、さっきも言った通り、ホームレスの人も多かったから目立ってはいなかったと思います。でも、そのときに私は『また並ばれてるんですね』と声をかけたはずです」
「対応としては普通だね。それで、そいつはどうしたんだい?」
「単純な気まぐれだったんですが、あの人、目を細めて笑ったんです。優しい感じでした。だから、きっと私も笑い返したんだと思います」
―――それはマズい。
俺は直感的にその行為のまずさを悟りました。
二つ上のエキセントリックな姉がいる経験から、俺は女というものについてはその辺の誰よりも詳しい自信があります。
そこから導き出される意見としては、
「女が親切にしてくれたからといって、好意があるとは限らない。いや、まったくないと思っておいた方がいい」
というものがありましたね。
つまり、本人がどういうつもりかはさておき、あの狼男は完璧に誤解してしまった可能性が高いということなのです。
「それから、しばらくして、大学やバイトの周辺であの人を見かけることが増えました。最初は偶然かと思ったし、見たと思ったらいなくなっていたので気のせいだと考えていました……」
「でも、違ったと」
「うん。色々な場所で見掛けたんだけど、そのうち、私の通学路でばかり見掛けるようになっていったんです。しかも、気が付いたら、実家に近い方に近い方になっていって……」
それから亜香里は警察にいったそうです。
でも、桶川ストーカー事件を引きあいにださなくてもわかる通り、警察というものは事件性を感じられたとしても起きていない事件については対処できません。
ここで一般の人は誤解しているむきがあるのですが、警察というのは日本国憲法で保障されている人権の中でも高位にある人身の自由を、令状を伴うことで侵害できる逮捕権という強力な権力を有しています。
令状なしでは、現行犯逮捕などでしか認められない逮捕権というものは、他の行政機関にも与えられていない、法治国家では最強レベルの武器なのです。
ですから、これを持つ警察の権力行使はなによりも抑制される必要があり、そのために事件が前置されていること―――つまり事件発生から出ない基本的に動くことができないのです。
ですから、こういう場合に警察を無能だと罵ることはフェアではないということですね。
話を戻しましょう。
「警察には相談したんですが無駄でした。でも、そのうちに実家の回りにあの人が現われるようになり、家の中が変な感じになりました。家に戻ると、中のものが勝手に動いてしまっているような……」
「……なにがだい?」
「ぬいぐるみとか、本とか…… うちのお母さん専業主婦だから勝手に部屋の掃除でもしたのかと思ったんですけど、私は自室ぐらいはマメに掃除する方なので滅多に入ってこないんです。確かめてもしてないって」
「キミはその男が潜り込んだのでは疑った訳だ」
「はい……。でも、そんなバカなことはないはずなんです。母がほとんど昼間は家にいるのに、気づかれないで二階の奥にある私の部屋入るなんて……」
そこで亜香里は息を呑み、
「馬鹿でした。私が。……昨日、家に帰って何気なく外を見たときにはっきりとわかったんです」
「……」
「道を挟んだ隣の家の屋根の上に、あの男の人が四つん這いでこちらを睨んでいることに。すごく怖い顔をしていました。私のことをじっと睨んでいたんです。咄嗟にカーテンを閉めましたけど、男の人は四つん這いのまま、まるで犬のように手で咽喉を掻いていました。手、というよりも前肢みたいで」
あまり考えたくもない光景ですね。
「それから、しばらくしたらウオオオオオオンって遠吠えみたいなのがすぐ近くから聞こえてきて、うちの近所は犬を飼っている家が多いから、普段はそういう泣き声がしたら連鎖反応でどこも続いてくるのに昨日に限ってはまったく静かでした。あとで近所に住む幼馴染に聞いたら、彼女の家の飼い犬はしっぽを股の間に挟んで怯え切ったまましばらく震えていたそうです……」
犬が尻尾を股に挟むって、相当怖い目にあったときの行動です。
要するに、その遠吠えが犬にとってはそこまで恐ろしいものだったということの傍証ということですね。
ただの遠吠えだけで耳にした犬たちをそこまで怯えさせるってどういうことよ、と思いますがまあ狼男だったというのなら納得するしかありませんでした。
亜香里はその夜だけはなんとかブルブル震えながらも乗り切ったらしいのですが、もう耐えきれなくなっていたようです。
そこで自分が知っている中で一番頼りになる従姉妹に連絡したということのようでした。
警察がダメで、家の中に入られているというのなら家族も危険。
自分がどうしたらよいかわからなくなり、最後に縋ったのが従妹というのは普通だとありえないことですが、俺にはわかりました。
彼女の従妹である尾野屋ひかりは、子供の頃からとても根性の座った女で、今でも度胸だけはたいしたものだからです。
ちなみに父親が某組の暴力団員であったことが原因なのだとは思いますけど。
それで、助けを求められたひかりがさらに話を振ってきたのが俺、という訳なのです。
先ほどの御子内後輩がいっていた通り、高校自体の俺はちょっとしたオカルト事件みたいなものをいくつか解決した実績がありました。
しかも腕っぷしも確かなのです。
中学時代からの知り合いであるところの尾野屋が俺に白羽の矢を立てるのも当然と言えば当然なのかもしれません。
そして、残念なことに俺はお人好しなのです。
元同級生にお願いされるままに、尾野屋亜香里と会うことになってしまいました。
やっぱり同級生は見つけ次第始末しないとね。
後始末が面倒ですから。
「……なるほど。かなり危険な状況にいたことは明らかなようだ。こちらの先輩との接触があったことで事態は激しく動き出したようだけどね」
「朋輪くんは悪くないと思う」
「そりゃあそうさ。先輩は相手が〈人狼〉なんていう怪物だとは知らなかったんだからね。せいぜい、性質の悪いストーカー程度の認識だったのだろう」
「ちょっと前に三鷹で女の子がストーカーに殺されたとき、屋根伝いに二階の窓から侵入されて、クローゼットの中に隠れていたってことがあっただろ。屋根ってきいて、そのときのことが頭に浮かんでな。急がなきゃという気持ちになったのは確かなんだよ」
その話を聞いて御子内後輩は、
「まったく無謀な勇気だけは買うけれど、もし先輩に何かあったら嘆くのはこちらの亜香里だ。もう少し慎重になった方がいい」
「いや、待ってくれないか。いくらなんでも、相手があんな狼男だとは考えないだろう。いくらなんでも」
「で、先輩が用意したのが、それかい?」
俺は手にしたモデルガンを見せました。
だが、御子内後輩は鼻で悪うことはせず、
「……効くと思ったのかな?」
「狼男だから」
「材料はどこから」
「貰い物のフォークがあったんで、ペンチで切って使うことにした」
「なるほどね。無謀ではあるけれど、無茶ではないのか。いいさ、それでいこう。〈お化け退治〉の先輩のお手並み拝見と行こうか」
すると、御子内後輩はすっくと立ち上がり、顎をしゃくる。
外に出ろということのようでした。
なんのつもりなのでしょうか。
あの狼男が待っているかも知れない外に出ろ、とは。
「―――まずはあの〈人狼〉を止める努力をしないとね」
「どういうことなんだ?」
「結界を用意するのさ。妖怪変化、怪物魔物を自由にさせないためのものを」
そういうと、御子内後輩は小鳥のよう軽快に俺の部屋を出ていったのです。
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