第380話「邪妖精〈赤帽子〉」



「〈邪妖精憑依アンシーリー・コート〉……」


 何だか知らないが、忌まわしい響きのする単語だった。

 ただの英単語でしかないはずなのに。


「ボクには初耳だ。それはどういうものなんだい?」


 相変わらず御子内さんは年上に対しても遠慮がない。

 無礼というよりも、屈託がなさすぎるというべきだろうか。

 天衣無縫と言った方がいいかもしれない。

 袖すり合うものすべてと腹を割った話し合いができ、気が合えば友となり、気楽に飲み食いをして仲良くできる性格なのだ。

 その代わり、敵対したのならば容赦や呵責など欠片ももたずに殺し合いもできる豪放磊落な面も有しているし、尊敬すべきものは心底敬うこともの出来る懐の深さも兼ね備えている。

 まさに英雄ヒーローに相応しい女の子なのである。


「アイルランドに限らず、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国、いわゆるイギリスにある四つの「国」および諸島には、現在も妖精や魔物が息づいて、神々もまた眠りについています」

「うん、そうらしいね」


 ここで一般常識のある人間なら、そんな馬鹿なヨタ話があってたまるか、と科学的常識を振りかざすところだが、生憎僕たちはもう数えきれないほどの妖魅に遭遇して戦ってきてリアルの外側にいる。

 日本に妖怪や死霊が蠢いているのならば、イギリスに妖精や魔物がいたってなにもおかしくはない。

 実際、僕の友達のロバートさんは妖精の血を引いた透明人間だしね。


「私が妖精研究家となったのは、あなたたちぐらいのときにロンドンにあるリトル・ヨコハマという街に住んでいたときの体験のおかげなの」

「ほお。聞いたことがあるよ。何十年も前に日本人街になったという地域だね」

「僕もテレビで見たことあるかな」


 リトル・トーキョーではなくてリトル・ヨコハマなのは、最初に移り住んだ日本人たちが横浜市の出身だったからという話だった。

 とはいえ、彼らは移民ではなくて、あくまで住んでいるだけだ。

 イギリスに短期滞在する日本人たちが寄り添って暮らしているコミュニティというだけで、他国に自分たちの街を作ったという訳ではない。

 例えば、日本の中華街とは違う、どちらかというと日本人が多いホテルみたいな場所らしい。

 千夏子さんもきっとロンドンに短期滞在したビジネスマンや大使館関係者の娘さんだったのだろう。


「そこで妖精と出会うことがあってね。それ以来、日本に戻ってもこういう風に妖精の研究して生活しているのよ。ほら、本も出しているわ」


 棚のところに置いてあるいくつかのハードカバーの本や文庫を手渡された。

 著者の名前のところに、「相原千夏子」となっている。

 この女性の執筆した本だ。


「他にも、短大で講義とか、研究書の翻訳とかもしていてね。日本ではわりと名前の知られた研究者なのよ。これでもね」


 確かにこの客間にまでずらりと高そうな洋書が並んでいて、いかにも研究家という感じだった。

 これだけの個人の蔵書はそうはお目にかかれないだろう。


「なるほど。キミが妖精学の泰斗だからこそ、倒れた娘の父親がまっさきに頼ってきたということだね。ということは、倒れた理由がひと目ではっきりとわかる状態だということだ」

「ええ」

「どんな様相なんだい? 例えば、慄然たる思いがするとか、狂気じみた異形だとか、這いずりまわる冒涜的な姿、とか名状しがたい悍ましさ、とか……」


 いったいどこの変態海洋生物の神話の怪物かな。


「百聞は一見に如かずね。客間のソファーに寝かせているから、ついてきて。紹介するわ」


 二階に上がる階段も幅広で豪奢であった。

 インテリアも素晴らしく、楽に飾られた多くの幻想画がほとんど博物館のようである。

 とても、この女性一人で住んでいるとは思えない。

 僕みたいな一般人からすると、「掃除が大変なんじゃないか」という平々凡々な感想しか出てこなかった。

 階段を昇りきり、二階に辿り着いた一番端の部屋がお客さん用の部屋らしい。

 ノックもせずにあけるということは、中の人へはその必要がないということだ。


「この子よ」


 ベッドではなく、ソファーだということがよくわかった。

 なぜなら、横たわった女の子はパジャマやジャージの類いではなく、見たこともない緑色のふわふわとした、そのくせところどころがボロボロの毛布のような服を着ていたからだ。

 さらに驚くべきは頭に乗っかった巨大な三角の帽子。

 工事現場のコーンを思わせるほど大きく、鍔広の旅人帽トラベラーズハットだったが、その表面にはどす黒い真っ赤な汚れがついていた。

 いや、赤く塗られていたというべきか。

 緑色の服とはまったくマッチしない、だが、そのくせ妙に似つかわしいともいえる奇妙で不気味な取り合わせだった。

 はっきりしていることは、この眼を閉じて寝ている女の子のものではないということだ。

 どう見たって、お仕着せられた不似合いの格好だとしか思えない。

 では、どうしてこんな奇怪な服装をしているのか……

 御子内さんが寝ている女の子の手を掴んで持ち上げた。


「この奇妙な服と肉体が一体化しているな。同化、しているというべきか。これはどういうことなんだ」

「わかるの?」

「まあね。服というよりも、皮膚になっている感じだ。もしかして、帽子もそうなのか」

「そうよ。一見、そうは思えないでしょうけど、帽子の底の部分が頭皮とほぼ癒着しているわ」


 癒着しているということは、接着剤か何か、そういうものを塗られてくっつけられたということだろうか。


「……おそらく、この女の子―――豊ノ橋凜花ちゃんというのだけれど―――に憑りついた妖精の力のせいね。着ぐるみではなくて、変身したと考えるのが理解としては正しいところよ」

「変身……魔女っ子みたいなものかい」

「そうね。クリーミーマミとかそのあたり」


 ……なるほど、千夏子さんあたりの世代だとそういう例えになるのか。


「じゃあ、原因はどうしてこんな格好になったのか、ということか。キミに心当たりはあるのだろう」

「あるわ」

「しかも、わざわざ〈社務所〉に連絡をとってボクらを呼ぶということは、それだけの危険があるということだね。さっきからこの家の内部を観察していたら、至る所に妖精除けの呪いらしいものがかかっている。それなのに、ボクらが必要ということだ」


 言われてみれば、確かに玄関の扉や壁、天井、あるいは床にまでなにやら奇妙な絵が描かれたり彫りこまれていた。

 思い返してみると、ケルトのルーン文字に似ている。

 あまり日本では見たことのない、リーズの花束やら、トゲのついた葉っぱなんかも飾ってあった。

 あれはもしかして魔除けのお呪いだったのだろうか。


「凜花ちゃんには、さっきも言ったブリテンでも最悪の妖精である〈赤帽子〉が憑りついています。そして、彼女はほぼ妖精と同化しているわ。―――ブリテンでは人間が妖精の力を得ることを〈妖精憑依シーリー・コート〉というのだけれど、この子についているのは邪悪な〈赤帽子〉だから〈邪妖精憑依アンシーリー・コート〉。狂気を振りまく危険極まりない存在になっているの」

「つまり、目を覚ました途端、この女の子は手の付けられないぐらい暴れ出すということか」

「ええ。ただ憑りついただけでなく、この姿といい、赤帽子といい、間違いなく〈邪妖精憑依アンシーリー・コート〉になっているわ。正直言って、私では止められないほど強力な存在なのよ」


 確かに千夏子さんにそんな力はなさそうだ。

 彼女は在野の研究家にすぎないのだから。

 はっきりとした武力が求められる局面なのだろう。


「凜花ちゃんのお父さまには帰ってもらったわ。少なくとも、彼まで犠牲になることはない」

「それはキミが犠牲になっても構わないということかい。千夏子は、この凜花という娘の知り合いか?」

「いいえ。お父さまとは何度かお会いしたことがあるけれど、この子とは初めてよ」

「キミがそこまで体を張るほどの関係性は見えないね。優秀とはいえど、一介の妖精研究家なのだろう?」

「理由があるのよ」

「理由? 聞いてもいいかい?」


 千夏子さんは少し遠い目をした。

 昔々を思い出すような。


「―――私の友達が、昔、妖精に襲われたことがあってね。私自身も、その時にこの〈赤帽子〉に狙われた経験があるのだけれど。それ以来、妖精に困らされている人に会うと助けてあげたくなっちゃうのよ」

「キミは助かった。では、お友達は?」

「……いなくなっちゃった」


 そうか。

 もしかして、償いの気持ちがあるのかもしれない。

 極東の島国にすむ日本人が、世界の反対側にあるセカイの妖魅である妖精を研究しているというのはそういう背景があるからか。


「わかった。では、キミの代わりにボクが拳を振るうことにしよう。いざという時の仕事はボクが引き受ける」


 しばらくしたら、この邪妖精に憑りつかれた凜花さんが目を覚ますだろう。

 その時に彼女を取り押さえられるのは御子内さんだけだ。

 

 きっと凜花さんを助けよう。

 千夏子さんのためにもね。




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