第379話「妖精研究家」
「どうしたの?」
青葉台駅前の歩道で立ち尽くす、いつもと違う御子内さんの肩をゆすった。
白衣と緋袴、リングシューズという普段通りの格好なのに、まるで別人にでもなったかのようだった。
身体が完全に堅くなっている。
視線を合わせただけで人を石にする蛇女と遭遇したかのごとく。
「御子内さん!?」
しばらく揺すっていて、ようやくこちらを見た。
額に汗が浮いていた。
「いや、なんだか知らないが、とてつもない力の波動を感じてね……。面目ない。ボクとしたことが」
本当に珍しいことだった。
年末に神の眷属ともいうべき怪物と戦っても、いつものように凛として振舞っていた最強の巫女レスラーがらしくもない戸惑いを見せている。
いったい、本当に何があったのだろう。
「もしかして、さっきの白い帽子とコートの人のことかな?」
「白い……? いや、特におかしなものは見てないよ。―――けど、なんだろう、ボクの全身が瘧にかかったように震えているんだ。こんなこと、滅多にないんだけれどね」
非常に気になるのか、何度も掌を握ったり開いたりを繰り返す。
不調というより、自分のみに何が起きたのかまったく理解できないという様子だった。
でも、おかしい。
あの白いコートの青年を目撃していないのか。
霊力も神通力も足りない僕程度ですら、明らかに普通ではないと見抜けてしまったというのに。
むしろ、逆か?
強い力があるからこそ、さっきの青年が灯台下暗しで映らなかったのかもしれない。
つまり、僕にとっては巨大な山のようであったとしても、御子内さんにとっては目の前の壁だったという感覚か。
そうでなければ説明がつかないところだ。
もっとも、ではさっきの白いコートの青年が何者であったのか、という問いには一切答えられないのだけれど……
少なくとも、御子内さんが見せている極端なまでの過剰反応を考えると妖魅かそれに近い存在の可能性が高い。
「とにかく、あのバスに乗ろうか。えっとなんとかいう学園にいく途中のバス停で降りればいいはずだ」
「タクシー使った方が早くない?」
「それもそうだ」
僕たちはあえてバスを使わないことにした。
学生がたくさんいるバスに乗ることは、改造巫女装束姿の御子内さんが目立って仕方ないということもあったが、さっきの怪現象ともいうべき異常を警戒してのことだ。
僕にとっては白いコートの青年が何者かわからないということであるが、御子内さんからすると自らの野生の勘が善くない未来を予知したと考えたのに違いない。
戦国武将や過去の剣豪もかくやというぐらいに、御子内さんは危険を察する勘が鋭く、何かとてつもなくまずいことが起こるのではないかと危惧したのだと思う。
だとすると、大勢を巻き込んでしまうバスや電車での移動はできる限り避けた方がいい。
そのあたり、僕も同意見であった。
「……この住所に行ってくれないか」
御子内さんの差し出したメモから読み取った住所をカーナビに入力するドライバー。
いつものことであるが、御子内さんの紅白の格好に驚いているのか、ちらちらこちらに視線を向ける。
まず間違いなく、こういう場合、僕のことは誰も気にしない。
案の定、このドライバーも僕が最後に支払いをするまで存在に気がついていないようだった。
まあ、太陽の隣に黒点があってもよほどきちんと目を凝らさないと見えないから仕方がないか。
「相原千夏子……か。この家で合っているようだ」
辿り着いたのは、一軒の古い洋館だった。
横浜という土地は意外と丘や谷がたくさんあって、土地の高低差が激しいところがある。
この洋館のある辺りもすっぽりと小高い丘に囲まれていて、盆地のようになっていた。
人が住んでいるらしい家も点々と存在しているが、僕たちが目指していた洋館の周囲には他の住宅は建てられていなかった。
この洋館だけが唯一といっていい。
冬なので枯れた植物の蔦に覆われた鉄柵がやや不気味ではあるが、柵から見通せる敷地内は綺麗に手入れされていて、まるで公園のようだった。
かなり広い敷地なので個人で手入れるのは相当大変だと思うけれど、その苦労に相応しい趣きを感じさせる。
左右対称に植えられた植物が計算された庭園であることを主張して、終の棲家にしたくなるような美しさを醸し出していた。
こんな日本の片隅とは思えないほど、西洋趣味―――いや、西洋そのものの洋式庭園に僕は眼を奪われた。
綺麗なものだ。
冬の時期でもこれなのだから、花が咲き乱れる春、緑が萌えて繁茂する夏、紅葉が物悲しくも寂しい秋、それぞれの季節だったらどれほど素晴らしいだろうか。
隣を見ると、御子内さんも同じ心持ちらしく、柵越しに見つめる洋式庭園に見惚れていた。
どれだけ、心を奪われていたのかはわからないが、門の脇にある木戸から顔をのぞかせて一人の女性に声を掛けられるまで僕らは身じろぎもしなかったのは確かだ。
「あなたたちが〈社務所〉の巫女さん?」
「うん、キミが相原千夏子さんか。妖精研究家の?」
「そうよ。初めまして」
初対面だったが、僕はすぐに彼女に好意を抱いた。
年の頃はアラフォーを通り越して、もうすぐ五十代に達するかもしれない。
なのに、見た目が若々しいだけでなく、澄んだ瞳をもった温和で少女のような女性だった。
茶色のカーディガンとコットンのスカートは、目立たないが彼女にぴったりな清楚さを感じさせ、知性を感じさせる眼差しも文学少女みたいだった。
学者、研究者というよりも、童話作家や芸術家といった雰囲気である。
しかも、僕らにかけられた声は春風のように優しい。
きっと自分の世界をしっかりと持っている人なのだろう。
そういう人は基本的に誰にでも優しく接することができるのだ。
「〈社務所〉のことは聞いているわ。実際に連絡を取ったのははじめてだけどね」
ちょっと驚いた。
妖怪退治を専門とする退魔機関である〈社務所〉については、一般の人はほとんど知らないし、知っていたとしてもあまり好意的ではない。
オカルト界隈に対する恐怖や畏怖といった負の印象が強いからだろう。
この千夏子さんのような普通の女性が、〈社務所〉について詳しく知っていて、しかも連絡を取ることができるなんて不思議だった。
てっきり、八咫烏がまた連絡を付けたのかと思っていたのに。
「入ってちょうだい。詳しいことは中で説明するわ」
僕らは千夏子さんの洋館に招き入れられた。
その際、玄関の前にいつもの〈護摩台〉用の資材を運ぶ八tトラックがやってくるのが見えた。
特に手配しておいた覚えはないから、御子内さんが連絡しておいてくれたのだろう。
とりあえず、千夏子さんに話を聞いてから、どこか広いところに〈護摩台〉を設置することになりそうだった。
やはり、今回も妖怪退治なのだろうか。
いや、話を聞いている限り、妖精退治っぽい気はするけどね。
「―――一昨日、私の知人の男性が倒れた娘さんを担ぎこんできたの」
洋館の中央にあるテーブルで僕たちは対面した。
かなり、立派な樫の木製のテーブルで間違いなく輸入の高級品だ。
この間、こぶしさんが蹴り壊したようなイケアの製品とは比べ物にならない値段であるはずだ。
ここで乱闘はしてほしくない、とつい御子内さんを見やってしまったほどである。
「どうして、ここに? ボクのみたところ、ここは医療施設ではないと思うけど」
「そうね。普通ならば、お父さんは倒れて意識のない娘さんがいたら、まっさきに病院に連れていくと思うわ。ただ、そのお父さんには知識があったの」
「どんな知識なんだい?」
「それは……」
千夏子さんは、手元に置いてあったA3版はあろうかという本をゆっくりと開いた。
装丁はシンプルなものであったが、開かれたページの美麗さは筆舌に尽くしがたいものがある。
カラフルというよりも、色鮮やかといった方がいい、油絵具で描かれた美しいイラストが中心となった、まさに「本」というものだった。
宗教絵画、教会のステンドグラスに似たタッチと色合いの画集というべきか。
とにかく、僕らはこの洋館の庭を見たときのように魅了された。
なんというか、この洋館にあるものはすべてがすべて美しいのである。
ただし、千夏子さんが僕らに見せたのはそういう芸術的なだけのものではなかった。
それは血のごとく紅い尖った帽子を被った醜い妖精の絵だった。
そして、妖精の手の中にはどす黒い液体に塗れた斧が握られていた。
「アイルランドで最も恐ろしい妖精の一体、〈
あまりに精緻に描かれていることから、今にも動きだしそうな妖精の絵だった。
まさか、この絵は……
「これは本物の〈赤帽子〉をモデルにして描かれたものだと言われています。描いたのはアーサー・コナン・ドイルという有名な作家ですが、それはどうでもいいことです。問題なのは、わたしのところに運ばれてきた女の子にこの〈赤帽子〉が憑りついてしまったということです」
妖精に憑りつかれたって……
幽霊じゃあるまいし、そんなことがあるのか。
「そんなことって顔をしていますね。でも、ヨーロッパではよくあることなんですよ。人が妖精に憑りつかれて、その力に振り回されてしまうということが」
「……よくあることなんですか」
「ええ。妖精に憑りつかれた人間が、その邪悪な波動に振り回されて、善くないことをし続けることを、ブリテンでは〈
千夏子さんは、妖精研究の泰斗らしくはっきりと断言した。
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