第568話「屋敷は猥らな夜の狩場」
僕は自分の部屋に戻った。
実のところ、かなり不安ではあった。
船の中での嵐の山荘発言もそうだが、こういう閉鎖空間で受け身にでることは相手の思うつぼになるのではないだろうか。
特にバラバラになるのは問題だ。
この屋敷のどこかに御子内さんたちの宿敵が潜んでいるというのならばさっさと見つけ出さないと、僕ら―――いや、田口弁護士や石埼さんが危ない。
御子内さんたちが囮になるという発想はわかるし、敵だってまず第一に危険度の高い相手を襲うだろうとは思う。
だが、すべての民草を護るという御子内さんらしくないアイデアだ。
仮に敵が〈社務所〉とは関係のない二人から狙ったとき、守りきれるものなのだろうか。
ことが起きてからでは絶対に間に合わないというのが、僕が今まで体験してきた妖魅事件のパターンだ。
悲鳴を聞いて駆けつけたときにはもう手遅れ、というのが僕らのいつもの戦いだった。
だからこそ、彼女たちはできる限り先手先手を打つようにしているのだ。
そうすると、田口弁護士たちを犠牲にするようなやり方はとるはずがない。
しかし、御子内さんも鉄心さんもそっちには何の関心もないような振る舞いをする。
何か理由があるのだろうか。
それとも策があるのか。
「……僕に内緒ということもあるか」
……ありえるね。
今回はいつもと違って、御子内さんと僕だけじゃない。
鉄心さんがいる。
小学生からの付き合いがあるという、ある意味ではわかりあっている幼馴染同士だ。
何かしら用意している可能性がある。
となると、僕の仕事は―――
「まったく、普通だったらけっこう凹む扱いかもしれないよね。……僕ってもしかしたらMなのかな」
ちょっと自嘲気味に笑ってみた。
どうせ僕の運命はもう絶望的なぐらいに決まっている。
そう選んだのだ。
だったら、こんなところで一々凹んでいられないし、与えられた役割を果たそうかな。
「じゃあ、とりあえず行くか」
僕は部屋の外に出た。
元がホテルだけあって、ここの三階部分は完全な個室が並んでいる。
十部屋が左右に五室ずつ用意されている。
全員が好き勝手な場所を選んだけれど、田口弁護士たちは階段に近い部屋に入っていた。
逆に御子内さんたちは奥だ。
奥に部屋をとれば何かあったとき不安だという心理的に追い込まれそうなところをあえて選んだのだろう。
大胆不敵とはまさにこのことだ。
肝っ玉が十代の女の子ものではない。
時計を見た。
そろそろ深夜だ。
何かあるとしたらもうそろそろだろう。
田口弁護士の部屋の前に立つ。
ノックしようとしたら、足もとに紙切れが落ちているのに気が付いた。
拾ってみる。
何か書いてる。
ポケットからペンライトを取り出して読んでみた。
『こちらはいい。老人の方へ行け』
と、横書きで書いてあった。
御子内さんの字じゃないことはわかるので、鉄心さんのものだろう。
やはり僕の予想通りなのだろうか。
ならば指示に従おう。
「石埼さん?」
僕は軽くノックをしてから中に入った。
豆電球だけがついていて、ベッドから寝息が聞こえる。
もう寝てしまったのだろうか。
石埼さん、ご老体だからなあ。
寝息がするぐらいなら大丈夫かと、部屋を見渡した。
僕のところと大差ない。
特別にホテルとして使われていないだけで、普通の客室だ。
海の見える窓に近づくと、ややカーテンが揺れていた。
隙間風が入っているのか、窓が開いているのか。
お年寄りに夜風は悪いだろうと近づいたとき、ベッドのふくらみがややおかしなことに気が付いた。
石埼さんのものにしては大きすぎる。
「失礼します!!」
慌てて毛布をはぎ取ると、そこには丸められた別の毛布が寝そべっていた。
シーツに触ると冷たい。
皺の形からして、誰かが寝ていた跡はない。
つまり、最初から石埼さんはこの部屋では休んでいないのだ。
寝息は……
「うわ、今どきテープレコーダーか」
僕も見たことのないテープに録音したものが流されていただけだ。
いや、逆にアナログすぎて本物に聞こえたのかもしれない。
停止ボタンを押して、イジェクトする。
初めてみるカセットテープだが、アクシア120とシールに印字されている。
「……この減りからすると、つけて30分ぐらいしかたっていないのかな。だとすると、石埼さんが出ていったのはそのぐらい」
こんな下手なアリバイ工作をする理由はわからない。
「あ、オートリバースがついているのか。だったら時間は検討つかないか」
部屋に尋ねてきたものを騙すための仕組みであることは間違いない。
そこまでして勝手に動かねばならない理由があるのかも。
僕は部屋の外に出た。
石埼さんは何やら企んでいるようだが、そうなると田口弁護士が危険かもしれない。
もう一度部屋の前にいくと、
『升麻は老人を追え』
さっきの紙がまた落ちていて、新しい指示が書いてあった。
言いたいことはわかったけど、だったら姿を見せてほしいよね。
「了解です」
石埼さんが心配なので、僕はあまり気にしないことにした。
このメモの主は僕のことを知っていて、状況もわかっている。
敵対的でないというのなら味方と考えるべきだ。
ただ、鉄心さんは僕のことを京さんとか京一殿とかいうので升麻と呼ぶ以上、彼女ではないことは明らかだ。
すると、誰だ?
僕ら以外に誰かがいるのか?
誰も見当たらないけれど……
はて。
「……まあいいか」
物事にあまりこだわらないのが、実は僕の最大の特徴だ。
わりとツッコまないのも、ツッコミを入れたからと言って何かが変わる訳ではないからである。
ただ、狙ってボケた相手にはツッコんでおかないと人生はうまく回らないということも学んだ。
なんだかんだ言って処世術だけの男なのだろう。
「とにかく石埼さんだ」
僕は一気に一階に降りた。
考えられるのは例の展示場。
あそこなら何かがある可能性がある。
思い返すと、僕と御子内さんが見物しているとき、石埼さんは入り口のあたりでふらふらとしているだけだった。
単に奥まで入るのを嫌がっているんだろうと思っていたけれど、もしかしたら入り口の何かが気にかかって調べていたのかもしれない。
その他では特に怪しいふるまいは感じなかった。
僕は広い屋敷の中を走ってすぐに展示場まで辿り着いた。
観音開きの扉が開いている。
月の光が縦に漏れ出しているのだ。
さっきは確かにきちんと閉めたはずだ。
僕は静かに近づいてそっと中を覗き込んだ。
西日のさす夕方に見た通りの光景が、月灯りに照らされているだけのはずだった。
だが、違った。
何かが蠢いていた。
床を這いずり回る黒いものが。
冴え冴えとした月光に照らされたそれは……
(髪の毛……!?)
口を押さえなければ悲鳴が漏れていたかもしれない。
かつてこんな不気味な光景は何度も観てきたはずだった。
でも、駄目だった。
あり得ないとしか思えなかった。
展示場すべての床を埋め尽くすかのような黒い髪の束は、不規則に蠢いているだけではなかったのだ。
そいつらはあるものと争っていた。
同じようにゆらゆらと蠢く、白く細長いトゲのようなものと。
絡みあい、絡みあい、絡みあい、身悶え、身悶え、身悶え、鬩ぎあい、鬩ぎあい、絞り合う……
まるで意志を持っているかのように淫らに猥らに毛とトゲが波打つ。
そんな悪夢めいた光景にさすがに吐き気を催して鳩尾のあたりが熱くなる。
必死で堪える。
こんなところで吐いたりしたら、あれにばれる。
「……っっ!!」
なんとかして耐えきって一瞬だけほっとしたとき、僕は首筋に衝撃を感じて前のめりに倒れた。
眼の奥がくらくらするけれど気は失っていない。
良かった。
こんなときに気絶するのだけは最悪だ。
痛みなら我慢できるが、気を失ったら最期になる。
手だけで這いずって横に転がる。
振り向いた僕の目には……スコップを持った石埼さんが血走った目でこちらを見下ろしているのが映った。
口角から涎が泡状に吹いている。
眼には生気がない。
完全に正気じゃなかった。
『イア イゴールナク!! そこでなにをしている小僧おおお!!』
―――それはこっちのセリフだよ!!
僕は大ピンチなのにそんな余計なことを考えてしまった。
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