第255話「〈泥田坊〉の季節は終わる」



 手にこびりついた泥はどうなるだろう。

 べったりと皮膚に貼りつくような汚れとなり、清潔に保っていた場合にはことのほか気分を害するものである。

 汚泥、泥をかぶる、泥棒……

 泥にまつわる悪い言葉は山のようにある。

 そのものの善悪は別として、人にとって泥というものはあまり良い気分にさせてもらえるものではないのだ。

 泥によって汚された手は、まるで落とすことの出来ない穢れのように思える。

 しかし、所詮は水分を含んだ土でしかない。

 逆にいえば土や砂が濡れただけのものだ。

 であるのならば、水気が抜けてしまえばただの土であり、どうということのない砂でしかない。

 御子内さんの発想の大本はそこにあった。


「でりゃあああ!!」


 本能のままに暴れる妖怪らしく、飛んでくる触手のパターンはほんの数回で見切られていた。

 サッカーのトップレベルのDFと同じだ。

 一度、見せつけられてしまえばすぐに修正をして、どんなスピードやテクニツクにも対応してしまう。

 御子内さんにとって、パターンの決まった攻撃などたかの知れたものでしかない。

 触手を掻い潜り、〈泥田坊〉の上半身が突き出る泥の手前で踏み込んで、高く跳ぶ。

 片目しかない顔面目掛けて正拳を叩きこんだ。

 だが、相手は泥で―――土と水で出来ている妖怪だ。

 単なる拳など手応えもなく突きぬけてしまう。

 ある意味では完全な防御を使い、〈泥田坊〉は攻撃直後の無防備な巫女を包み込もうとする。

 さっきと同じ、いやもっと悪い状態で掴まれてマットに叩き付けられる未来しか見えなかった。

 またも徒手空拳の御子内さんの技は徒労のまま終わるのか。

 しかし、そうはならなかった。

 御子内さんは宙に留まらず、果敢にもわざと泥の中に着地すると、信じられない行動に出た。

 大きく息を吸うと、そのまま両手と一度腰まで引きつけ、双手を振るい、あり得ないほどの連打を開始したのだ。

 あたたも、オラオラもなく、肺活量のすべてを連打を注ぐためだけに使い、〈泥田坊〉に一切の反撃を許さぬぐらいの猛烈な連撃の開始だった。

 右、左、双打。

 パンチの連打に必要なのは手打ちにならないような腰の回転力である。

 これは「キレ」に直結する。

 腰の回転と合わせて前傾姿勢にならないように重心を体幹の中心に意識する。

 御子内さんはそれが可能だ。

 しかも、もともと腕力もあることから一発一発が完全なパンチでなくても、とにかく拳を繰りだすことに集中し、呼吸を一切することなくひたすらに、ただひたすらに連打を繰り返す。

〈泥田坊〉の顔面・胴体、肩、手、腹、すべてに満遍なく打ち続ける。

 普通でも重すぎる彼女のパンチだ。

 まともな人間相手なら一撃で決まるような攻撃ばかりであった。

 もちろん、泥そのものなので手応えらしいものはない。

 それでも御子内さんの拳が当たれば、不定形の身体は揺らぎ、吹き飛ばされた泥を埋めるために、残りの泥が流動していく。

 しかし、御子内さんはそれを許さない。

 完全に埋まりきる前に再び拳で抉り取るのだ。

 なんのために、そんなことをするのか、まるで滝の前で荒行をする行者のような無茶苦茶な行動だった。

 よく見ると、さっきまで御子内さんが踏み込むと足元の泥が自由を奪おうと盛り上がっていたのに、べたりと足をついていても何の変化もない。

 それどころか、〈泥田坊〉の顔もわずかに色が変わっているように感じられた。

 いや、違う。

 色が変わったのではなく、白みがかかっているのだ。

 泥そのものの黒い外見がやや白く砂を葺いているかのように。


「もしかして……か……」


 御子内さんの一瞬たりとも隙間を造らないハチャメチャな無呼吸連打のせいなのか。

 泥を構成する二つの要素のうち、水分が御子内さんの体温と連打の持つ熱によって乾かされ、どんどんとただの土になっていくのだ。

〈泥田坊〉とて無限に再生するのではない。

 足元にある泥などを回すことで補っているのだ。

 しかも、戦っている場所は〈護摩台〉のマットの上で幾らでも補給できる大地ではない。

 奴が新しく泥を補給する余地はなかった。

 

「あれが御子内さんの狙いか!!」


〈泥田坊〉の一切の反撃すら許さない鬼気迫る無呼吸連打が、泥の肉体を削ぎ落し、

 泥は土へ、妖怪も土へ。

 あとで聞いた話によると、御子内さんは四分ほど呼吸を完全に止めて活動ができるらしい。

 つまり、御子内さんのフル攻撃は確実に四分は続いたのだ。

 そして、それで十分だった。

 御子内さんが、


「はああああああ!!」


 と凄まじい息継ぎを開始した時、泥で出来た妖怪はほとんど土の柱のようになっていた。

 御子内さんに手を伸ばしても、三本指の手の先からボロボロと砂が零れ、身体が形作れなくなっている。

 退魔巫女のありえない執念が妖怪の存在を打ち破ったのだ。

 

『タヲ……タヲ……』


 片目から憎悪の淀んだ光さえ消えかかっている〈泥田坊〉が呻く。

 その肩を御子内さんが掴んだ。

 肩に乗せて、腰をひっかけ、「よいさっ!!」と勢いよく持ち上げた。

 泥の中から初めて見る〈泥田坊〉の下半身が引っこ抜かれた。

 巨体を担ぎ上げたまま、一瞬、静止する。

 次の瞬間、とんでもない高度から叩き付けるパワーボムが炸裂した。

 しかも、御子内さんはジャンプまでしていたのだから、破壊力はさらに「倍」だ!!


『タヲォォォォォォォォォォォ』


 断末魔の叫びが轟いても、それは流れを止めることはない。

 御子内さんのパワーボムは確実に〈泥田坊〉の闇の生命にトドメを刺し、肩が押さえつけられ3カウントが数えられた途端、妖怪は崩れ落ちていく。

 砂のようだった。

 マットの上に一塊の砂山が生まれ、二度と人に似た姿をとることはなかった。

 御子内或子が〈泥田坊〉を下したのだ。

 決まり手は無呼吸連打からのパワーボム。

 僕の御子内さんらしい、強引すぎる力技であった……



           ◇◆◇


「庭と田んぼから白骨が見つかったよ」

「やっぱり御子内さんの想像通りだったんだ……」

「うん。望月の祖父とその長男の豊作はどちらも自分の妻を殺害して埋めていたんだ」


 ……〈泥田坊〉を倒した後、〈社務所〉経由で警察がやってきた。

 彼らによって、望月家の庭と田んぼが捜索され、結果として二体の人骨が発見された。

 どちらも完全に白骨化していたが、おそらく若い女性だということで検視がなされ、歯型と骨折跡等から、豊作・耕作兄弟の母と耕作の妻のものであることが確認されたという。

 どちらも頭蓋骨に鈍器で殴られたような跡があったことから、死因は殺人によるものとも断定された。

 その結果をもとに、病床にある耕作に任意で事情聴取すると、自身の妻の殺害と、祖父による妻である祖母の殺害を自供した。

 親子二代にわたる妻殺しの発覚である。


「望月の祖父はここに農地を勝手引っ越しして来た時に、妻とつまらないことで諍いになりかっとなって殺してしまったらしいよ。死体は購入した田んぼの一畝に埋めて、誰にも近寄らせないようにした。彼の田んぼへの執着心は、この自分の犯罪がバレることを極端に恐れてのものだったみたいだ。妻は浮気して出ていったと言い訳をしていたけれど、実際はいつバレるのか怖くて仕方なかったそうさ」


 望月家の兄弟を見ればわかるが、とかくこの一家の男の血の気は多い。

 すぐかっとなって暴力を振るってしまうようだ。

 だから、僕たちが訪ねて来た時も深く考えずにモデルガンで脅すようなことを平然と選択してしまう。

 妻を殺した祖父の血は当然二人の息子にも引き継がれていた。


「家を出て新しく家庭を持った望月豊作も同様だった。こちらもくだらないことで喧嘩をして、自分の奥さんを殺してしまう。思い悩んで父親に相談したら、庭に埋めればいいとアドバイスされ、農業を継ぐ代わりに死体の隠蔽を手伝ってもらったそうだ。祖父としては田んぼに埋めた祖母の死体が見つかって自分の悪事がバレないように、息子を使う予定だったのだろうね。例のあの頑丈な農家とは思えない塀も、庭の死体が見つからないようにするためのものだったのだろう」


 豊作が農家を継げば、少なくともあと十数年は妻殺しが発覚しないはずだった。

 望月家の土地・家屋は何も知らない次男の耕作には渡さず、豊作がずっと隠匿を続ける予定だったのだ。

 しかし、彼はまだ四十の若さで末期がんになる。

 つまり、耕作にも土地家屋が渡るおそれがでて、しかも次男は土地を売る気満々だったのだ。

 祖父と長男は悪事が露呈することを極端に恐れた。

 だからといって、もう高齢の身ではすでに死体をどこか別の場所に移すのは難しい。

 孫たちも大きくなって不審な行動はとれないし、頼みの長男は病気で入院中だ。

 耕作や孫たちに打ち明けるのはできたら避けたい。

 では、どうすればいい。

 悩みがピークに達したとき、なんと祖父は交通事故で死亡してしまう。

 妻の死体を埋めた田んぼを誰にも譲りたくないという未練を抱いたまま。

 そして、彼は〈泥田坊〉となった。


「本来の〈泥田坊〉は放蕩息子によってなくしたものを取り返そうとする妖怪だが、望月家の祖父がなったのは、田んぼを売らせまい、手放すまいという妄執そのものだったんだよ。妻殺しという悪事が露呈しないように、あいつは必死に『田を渡さない』と叫んでいたんだろう」


『タヲ……』というのはそういう意味だったのか。

 そんなことのために息子を殺し、生活できずに手放すしかない十代の孫まで殺そうとしたのだ。

 御子内さんが二人に「手放すのか」と問いかけて言質をとったのはそのためだったのだろう。

 癌で夭逝しそうな息子の子供なら、相続はなされることになる。

 そうしたら死体が掘りだされないとも限らないしね。

 死んでしまったからもう何もできない。

 できるのは妖怪となって田んぼを守ることだけ。

 だから、あんなにも世界を憎んでいたのか。

 世界が自分の悪事を暴きだして恥をかかせようとしていると錯覚していたのだ。


「妄執……。怨念……。人間の嫌な部分を抜き出したような妖怪だったんだね」

「まだ、妖怪としての側面があるだけいいさ。世の中には、人間の姿のままでああいう負の感情の塊になるものもいるから」


 事件は解決した。

 もう望月家の生き残ったものたちは〈泥田坊〉に悩まされることはないだろう。

 ただ、まだ幼いあの二人にとっては呪いにも等しい境遇を生きることに繋がっているのだけれど。


「あの連中、まっとうに生きていけるのかナ」

「わからない。ボクらの仕事は妖怪退治だけだからね。人の人生には責任は持てないんだよ」


 御子内さんは努めて冷静に振舞う。

 確かにその通りだ。

 僕たちには何もできない。

 

「〈泥田坊〉は倒した。それだけさ」


 もう収穫の終わった田園に冷たい風が吹いた。

 稲の季節は過ぎている。

 水田は枯れて、泥にまみれたあの妖怪の季節もまた終わったのだ。


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