第254話「無敵の泥と最強の巫女」



 石燕の浮世絵の中では、〈泥田坊〉は田んぼの中から上半身を突き出した姿で描かれている。

〈護摩台〉に上がってきた妖怪もそれとほぼ同じだった。

 この邪悪な妖怪の移動は、泥だまりと共になされるのだ。

 白いマットを黒く汚す泥とともに移動する妖怪。

 それが〈泥田坊〉だった。

 大きさそのものは少し体格のいい妖怪と同じぐらいの上、上半身しか見せていないので全高は高くない。

 しかし、身体を突き出している泥だまりは常にニメートル四方はあり、間合いが掴みづらい。

 また、あの泥だまり。

 迂闊に踏み込めば何が待っているのか見当もつかない。

 しかも、さっきの泥の触手を考えると、遠距離でも接近戦でもどちらもござれだろう。

 小柄な御子内さんにとっては大変に不利な相手であることは確かだ。


『……タヲ……』


 黄泉の底から響くような声を出し、妖怪が片目で御子内さんを睨む。

〈泥田坊〉にはおよそ知恵というものがないようだ。

 ただ、その黄色く濁った眼窩の奥には滾った溶岩のような憎しみがこもっていた。

 僕にもわかる、それはまさに憎悪だった。

 何故、そこまで憎んでいるのか。

 相手は対峙している巫女のはずはない。

 妖怪が彼女越しに視ているのはきっと別の憎悪の対象だ。

 ここまで人間性の悪意のみを体現している妖怪は久しぶりだった。

 それはそうだろう。

 この〈泥田坊〉の正体が望月家の祖父であったとしたら、彼は田んぼのために実の息子を殺害したかもしれないのだ。

 少なくとも田んぼというものは価値の高いものかもしれないが、子供の命と引き換えにできるほどのものではないはず。

 例え、妖怪となったとしても。

 浅ましい、まさに飢えて彷徨う餓鬼の姿であった。


「ジジイ……あんた……」


 望月兄が泣きそうな顔で〈泥田坊〉を見つめている。

 弟の方は涙を流していた。

 恐怖はまだ残っている。

 だが、それに匹敵するぐらい、妖魅に堕ちた祖父の姿にショックを受けているのだ。

 血を分けた祖父がこんなものになってしまったら誰もがそう感じるだろう。

 

「水田が米農家にとって何よりも大切な、代えがたいものだということはわかる。田を護るために人の命を奪うことだってあるかもしれない。人の命よりも大切なものは誰にでもある」


 御子内さんが口を開いた。

 とある作者の小説の中で「まったく、もし一般論の国というのがあったら、君はそこで王様になれるよ」という台詞がある。

 それを引用するのなら、僕は「建前の国」からやってきた男だ。

 基本的に偽善的な臭いが僕からは離れない程度のことしか言えないのだから。

 だが、僕のような建前の国から建前を広げにやってきたような人間とは違って、彼女は人間の悪性すらも肯定する。

 ただし、それを彼女は許さない。


「しかし、オマエのように隠悪のために人を殺すものとは違う。ボクはオマエのような奴を決して許さない」


 御子内さんがキミではなく、「オマエ」といった。

 ほとんど聞いたことのない呼びかけ方だ。

 それだけ頭に来ているともの考えられ。

 つまり、御子内さんは今回の〈泥田坊〉の事件についてすでに完璧に把握しているのだろう。

 すべてを踏まえているからこその、この台詞なのだ。

 恐ろしい敵と認識したうえでなおかつ、この強い言葉をぶつけられる。

 彼女の逞しさと誇りの高さが際立っていた。


「でりゃあ!!」


 御子内さんはロープに体を預け、マットの上を動き回る。

〈泥田坊〉を攪乱するつもりなのだ。

 敵は泥だまりとともに移動するしかないからか、移動そのものは極めて鈍重だ。

 それどころか御子内さんに近づいてくることもできそうにない。

 だからか、例の泥の触手が何本も唸りを上げて飛んでくる。

 もっとも、リングサイドで何回も撃墜している御子内さんにとっては、芸のない単調な攻撃でしかない。

 ただ速いだけでは、拳銃の弾丸さえも見切れる御子内さんにとっては児戯にも等しい。

 ビュンと飛んでくる触手の先端を右の手刀で切り落とし、左手で掴んで引きずり出す。

 しかし、触手は泥でできているだけで捨てることも簡単な、いわばトカゲの尻尾に過ぎないので、次の瞬間には新しいものが飛んでくる。

 一歩、間合いに踏み込んだ瞬間、足首に纏わりつこうとハエトリグサのようにばっくり口を開いた泥の奇怪な動きもあった。

 おかげで最初の予感の通りに御子内さんは近づけない。


「これでどうだ!!」


 不意を突いて、後ろから蹴りかかったのはうまくいったが、なんと頭に当たったらぐちゃりと凹み、隻眼は潰れたように思えたが、何のダメージも与えられた様子がなかった。 

 無理な姿勢のまま、空中で足首を捕まれ、そのまま地面へと強引に投げ飛ばされる。

 うまく受け身をとれたからいいようなものの、下手をしたらそのままお陀仏になりそうな乱暴な投げだった。

 マットでバウンドする彼女の小柄な肉体。

 起死回生の一撃にはならなかったのだ。

 しかし、それでわかったことがあった。

 あいつは触手同様に泥で構成されているということである。

 何が当たっても、おそらく致命的なダメージは与えられないのだ。

 泥という不定形の軟体でできている以上、少なくとも打撃と投げが主体の御子内さんではまともにやりあうことさえ難しいだろう。

 神通力のこもった武器である〈神腕〉を使うレイさんか、殺気を出す敵であればどんなものでも投げられる皐月さんでもなければ、勝目はないかもしれない。

 少なくとも、「巫女レスラー」では敵うまい。


「そうきたか……」


 御子内さんが口元を拭う。

 叩き付けられた衝撃で唇を切ったようだった。

 咄嗟にとった両腕を縦に組む受け身のおかげでその程度で済んだのかもしれない。

 遠目ではかなり酷い落下のようにも見えたのだけど。

 一方、〈泥田坊〉の頭部はもう元に戻っていた。

 御子内さんの蹴りで凹んだ箇所は元に戻り、潰れたように見えた片目も健在のままだ。

 はっきり言って不死身のような可塑性を持つのである。

 あれでは素手でなにをやっても無駄だ。

 御子内さん、何か策はあるのか。

 このままでは敗北必至だぞ。

 だが、僕の心配をよそに、御子内さんは手のひらのをじっと凝視していた。

 何も持ってさえいない手のひらをだ。

〈泥田坊〉の触手を握ったことで汚れてしまった小さな手を。


 ―――ぢっと手を見る。


 明治の詩人の有名な詩の一説を思い出した。

 あの御子内さんが、自分の戦いが徒労に終わるのかと打ちひしがれている。

 そんな絶望的な光景を見ているのかと思わされた。

 彼女には、他の退魔巫女のような特殊な力はない。

 あるのは誰にも負けない闘志と戦いのセンスだけだった。

 それらが通じない相手が出てきたら、もう勝てる保証はなかった。

 

「……」


 御子内さんが何度も手を握って開く。

 必死に蜘蛛の糸を掴むように。

 ただ、それは僕の主観でしかなかった。


「これでいけるかな?」


 御子内さんはすでに答えを出していたのだ。

〈泥田坊〉を攻略するための。

 彼女が見ていたのは、働きの徒労を感じるための皺ではなく、まさに一握の砂であったということであり、彼女のバトルセンスが導き出したとてつもない戦い方を僕が目の当たりにするのはそれからすぐのこととなる。

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