第253話「かつてないほど汚穢で不気味」
突然、まるで絡みつく蛇のように宙を切って飛んできた泥の触手が、望月兄の首に巻き付いた。
そして傍目からでもわかる強い力で、雑草を根ごと引っこ抜くように望月兄を引き寄せた。
この先にある泥だまりに連れ込むつもりなのだ。
油断していたら、そのまま終わりだっただろう。
だけど、僕は用心深い御子内さんの叫びに乗って、懐に隠していた桃の木から切りだした木剣で斬りつけた。
以前貰ったものは、刀身が長すぎて持ち歩くのに不便だったから、音子さんの実家の神社で擦りあげてもらって短くしたのである。
元々退魔の力のある霊験あらたかな品であったが、さらに磨きをかけられて鋭さを増していた。
御子内さんたちの拳に比べたらまったくたいしたことはないけど、護身用程度には十分な力がある。
〈泥田坊〉の泥の触手を咄嗟に切り裂いて望月兄を助けられる程度には。
「京一、ぐっじょぶ!!」
僕が泥の触手を切断したことで、一瞬の遅滞が生まれ、御子内さんが動く時間が稼げた。
彼女が望月弟を〈護摩台〉に押し上げると、僕はその間に兄貴の方を助け起こす。
「急げ、リングの上に乗るんだ!!」
自分の身に恐ろしいことが降りかかっていることを理解した望月兄は泡を食いつつ、〈護摩台〉に転がり込んでいく。
〈護摩台〉に登れば助かる訳ではないが、彼らが上がってくれれば〈泥田坊〉もやってくる。
そうすれば御子内さんが互角に戦うことができるのだ。
二人を逃すまい、と再び触手が飛んでくるが、今度は余裕をもって臨んだ御子内さんに叩き落される。
おかげで望月兄弟は〈護摩台〉の隅っこに逃れることができた。
「御子内さん、OKだ」
「よし、京一も〈護摩台〉に登ってくれ」
「うん」
そのまま、彼女と一緒に上に上がる。
こうなってしまえば、こちらの勝ちだ。
二人を狙う妖怪〈泥田坊〉にとって、すでにこの舞台に上がらなければならない状況になってしまったのである。
触手が伸びてきた泥だまりがじゅるじゅると動き出した。
まるで生き物、いや藻が動いているような不気味さだ。
泥だまりはあっという間にリングサイドに辿り着き、その中心からこげ茶色の太い腕が伸びてマットの縁を掴み、巨大な坊主頭の怪人が姿を現した。
片目がない、指が三本しかない全裸の大男だった。
全身に黒い泥がこびりつき、とてもではないが触りたいとは思えない。
不気味で汚わい、退廃的な鬼気がまとわりついて離れない異形がぞわりとマットの上に這いずりあがってくる。
あれが〈泥田坊〉。
反対側のコーナーポストで抱き合って震えあがっている兄弟の、助けを呟くかすかな声が爆音のように大きく聞こえてきた。
今まで多くの妖怪を見たが、こいつは極め付けの奇怪さだった。
不定形の魍魎ですらもう少し正視できた。
これは……あまりに不浄すぎる。
「……驚いた。〈泥田坊〉ってここまで恐ろしい妖怪だったのか」
御子内さんまでが驚愕している。
正直言って、彼女とコンビを組んでから見てきたどの妖怪よりも気持ち悪い容姿をしていた。
地下深くのウジ虫とミミズの溜まり場から顔を出したかのように、全身にまとわりついたそれらの生物とその残骸。
唯一光を放つ片目の薄気味悪いぼやけた黄色。
開いた口はぐじゅぐじゅの涎でいっぱいだ。
「おえっ!!」
後ろで望月兄弟が反吐を吐いている。
どちらも漂う腐臭に耐えられなかったのだ。
僕も鼻を摘ままなければ耐えられそうにない、刺激臭だった。
唯一、御子内さんだけが何もせずに堪えている。
「余裕がない……んだ」
あまりにも汚穢な化け物を相手にして、いつもの彼女が貫けるのかさすがに心配だった。
だが、そんな僕の心配をよそに、
カアアアアン!!
といつもの鐘が鳴る。
戦いのゴングだ。
あれが鳴った時、この〈護摩台〉には妖怪を逃がさず、巫女の力を五分にまで引き上げる結界が張られる。
それは退魔巫女と妖怪が雌雄を決しなければならない強制力が働くということでもあった。
「頑張れ、御子内さん!!」
僕の応援にサムズアップして応えてくれた彼女を残して、僕は望月兄弟とともに〈護摩台〉から降りた。
ここから先は彼女に委ねるしかない。
僕の巫女レスラーに。
しかし、〈泥田坊〉はかつてないほどに狂的な雰囲気を発し続けている。
果たして、あの御子内さんでも勝ち目があるのだろうか……
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