ー第35試合 黴の臭いのする戦場ー
第256話「図書館の妖魅」
霞が関にある国立国会図書館は、原則として新たに出版される本はすべて納入されることになっている。
かつては、貸出用・保存用・予備の三冊を納めることになっていたのだが、近年、出版される本のあまりの多さもあり、現在は一冊だけでもいいことになっている。
現在の総蔵書数は3000万点。
文化的財産の蓄積の目的のためなので、減らすことはできず、毎年約100万点増加しているのである。
そのため物理的なスペースが足りなくなることもあり、地下に所蔵庫を増やしたり、特定の書籍は関西へと移したりして対応していた。
とはいえ、それでも雑誌や地方の出版社が発行したりしたものなどは抜けがあり、すべてとまではいかないようである。
そもそも、国会図書館の名が示すように、ここは国会議員が法令を策定するための資料収集を行うための施設であり、次に官僚が行政に使用する資料収集を補助することとなるので、通常の意味での図書館とは一線を画している。
もっとも、日本の知の代表的な砦と呼ぶことに間違いはなく、現在でも多くの人々が知識を求めて来訪している。
―――
他の公務員試験同様に一回の試験で合格することができず、二度挑戦してようやく憧れの国会図書館に勤めることができるようになったのである。
彼女の仕事はまだ蔵書の整理が主なところだが、大学でも司書の資格をとっていたこともあり、いつかはそれが活かせればいいと考えていた(国会図書館の職員には司書の資格は必須ではないのだ)。
もともと、紙の本のかび臭さが好きだということもあり、本に囲まれた仕事には満足していた。
給料は多くはないが、それでも安定した公務員でもあり、生活面においての不満も特にはなかった。
人間関係についても今のところ問題はない。
ただ、一つだけ強いてあげるのならば……
「地下へのエレベーターのうち、北の端にある一基には絶対に乗ってはいけないよ。館長もしくはその代理以外は使用禁止とある奴だ」
上司から受けた忠告について、妙に引っかかるものを感じたことぐらいだ。
地下の所蔵庫に行くこともある彼女としては、そのエレベーターは確かに気にはなっていた。
他のものと違い、出入り口の前に柵が置いてあることから不審に感じていたのだ。
専用のカードキーらしいものを使わなければ入れない柵というのは、確かに奇異である。
館長の権限がなければ触れられない資料があるというのはわかるが、問題はそのエレベーターの周囲に近づくと感じる冷気のようなものだった。
他の職員だと肌寒い程度のことしか感じないようだが、栞は元々祖父が神主をしていたこともあり、霊感のようなものを持っていたので、そのエレベーターに近づくと背筋が急激に痛くなるのだ。
寒気を通り越して、冷気にまでなっているような印象だった。
つまり、栞の霊なるものを察知する力が警報を鳴らしているのだ。
国会図書館の地下に、いったい何があるのか。
気になって、自分でできる範囲で調べてみたが、地下に何か空間が存在しているらしいことはわかっても、そこに納入されているものについてはさっぱりだった。
だいたい、彼女がそこまで感じ取れる“もの”があるのならば、もっと酷い霊障のようなものがあっても仕方のないところなのだが、実のところ、幽霊が出るといった話さえも聞いたことがない。
だから、栞にとっては、そこは気にはなるものの原因がさっぱりわからない程度の場所でしかなかったのである。
所用で近くの通路を通り抜けることがあっても、目を逸らすだけで気にしないようにはしていた。
ただ、その日は少し様子が違っていた。
本を運ぶためのキャスターを押しながら、例のエレベーターの前を通りかかった栞は、エレベーターの前に小柄な影が立っていることに気がついた。
パッと見た目は赤い服を着た背を丸めた女性のようだった。
栞は現在の館長が女性であることもあり、彼女だろうと最初は思ったぐらいだ。
ただ、エレベーターを誰かが利用するシーンは初めて見たということもあり、なにげなくもう一度視線を送ると、少し訝しく思った。
館長にしては背が低すぎる。
また、赤い服はスーツやスカートではなく、絣の着物であることに気が付いたからだ。
国会図書館には多くの職員がいるが、和装で出入りするものなど聞いたこともないし、しおりも知らなかった。
要するに、栞の知らない人間なのだ。
(不審者……なのかな?)
脳裏に浮かんだのはそんな内容だったが、警戒も厳重で、パスがなければ入れないこの施設に不審者が入り込む余地はないはず。
では、いったい何者なのだ、あの着物の主は……
相手が160センチ台の自分よりも背が低そうだということもあり、彼女にしては珍しく好奇心が顔をのぞかせた。
だから、そのまま不用意に近づいて、声をかけようとした。
びくん
あと数歩で触れられる位置まで近づいたとき、突然栞の背筋が痛くなった。
こめかみにも鈍痛が起きる。
警報だった。
彼女の霊感が危険を叫んでいるのだ!
この時になって、初めて、彼女は自分の迂闊さに気がついた。
冷静に考えればわかることではないか。
大都会東京のこんな施設に赤い着物をまとった女がいるはずがないではないか、と。
「あなた……誰……」
思わず誰何の声が出た。
そんなことを聞いている暇があったら、彼女は逃げ出すべきだったというのに。
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ―――
不気味な音がエレベーターのある室内に響き渡った。
電灯の明かりがなぜか消えかける。
点滅し始めたのだ。
どうして。
この連続音は着物の女のほうからしていた。
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ―――
気が狂いそうな音の響きだった。
女の肩の上で黒いものが蠢いた。
それは、灰色の皮を持ち、長い細い尻尾を左右に揺らす生き物であった。
鼠、である。
栄養ドリンクのような胴体の鼠はちょろちょろと女の上で尻尾を揺らしながら、なんと栞を視ていた。
逃げることもなく、じっと凝視していた。
あんなものが肩の上にいるのに、女は栞の方を振り向きもしない。
「あなた、……何なの……」
ようやく振り絞った栞の問いに着物の女が答えた。
声ではなく、振り向くことで。
長い黒髪の下に、前歯の長い齧歯類の特徴と紅玉のように光る双眸をくっつけた鼠の顔がそこにはあった。
人と同じ大きさの、二本脚で立つ、鼠だった。
まとっている着物がさらなる気味悪さを加速させる。
貌には人の面影があるが、全体的には鼠そのもの。
そんなものが、人のように直立して、エレベーターを待っている……
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ……
栞は巨大な鼠の手に何かが握られていることを知った。
例の不快な音はそこから聞こえてきたのだ。
恐怖に震えながらも視線を逸らせない栞の眼に、音の正体がわかった。
それは巨大な鼠が手にしたものを齧る音だったのだ。
そして、それは……
一冊の雑誌のようなものであった……
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