ー第18試合 東京狸合戦・前編ー
第124話「江戸前の長」
JR目白駅から学習院大学へと続く、目白通り沿いに、かつて巨大な権力を握っていた総理大臣の私邸の跡地があった。
彼の死後、相続税の支払いのために物納されてしまったことで、通り沿いに延々とそびえ立っていた塀はもはやない。
当時の建物としては、石造りの塀と頑強な鉄門扉が、今では日本女子大の前にあるビルと公園の隙間から覗いているだけだ。
その総理大臣の苗字の表札がなければ、地元の住民以外は気づくはずもないほどにひっそりとしている。
現在は、彼の娘が住んではいるが、過去の栄光のすべてはもう消え去っていると言えるだろう。
表向きは。
その裏手に回ると、都会の真ん中には相応しくない鬱蒼とした林を含んだ庭を持つ、日本家屋が存在している。
普段は誰一人として近づかないその日本家屋に、珍しく客人が訪れていた。
一人は黒いベストとパンツ、帽子を被った二十代後半の若い女性だった。
平均よりも身長が高く、髪を短く刈り込んでいることから、かなりボーイッシュな印象を与える。
彼女は名を不知火こぶしといい、〈社務所〉と呼ばれる関東を鎮守する聖巫女を束ねる組織の元巫女であった。
正座して、彼女が運転するベンツで運んできた人物の後ろに控えている。
彼女に背中を向け、この屋敷の主人たちと対しているのは、白衣と緋袴を着込み、肩袖の根元が縫われた、脇を縫わずに前を
長い黒髪を後ろの生え際から束ねて一まとめにして、和紙でまとめた上から水引でしばって髪留めとした
紅白の水引は糊を引いて乾かしたものであった。
この巫女の見た目は二十歳前後に思われたが、落ち着いた正座姿はとても年相応には思えない。
まるで何十年も生きてきた老婆のようでさえあった。
用意された茶碗からお茶を飲むときでさえ、静謐で美しい仕草を保ち続けている。
「わたくしどもの要望は伝えました。あとは、おまえ様方たちの腹積もり次第」
口から出た声ですら気品に満ちている。
ただし、やや皺がれているのは彼女の実の年齢を考えれば当然ともいえた。
『じゃかましいぜ、
鼓膜が破けんばかりの胴間声であった。
御所守と呼ばれた巫女は平然とその大音声を聞き流したが、後ろに控えていたこぶしの方が震えあがったぐらいだ。
物理的だけではなく、霊的な軋みさえも覚えるほどのド迫力である。
こぶしとて、現役は退いたとはいえかつての退魔巫女だ。
通常の範囲での恫喝にはまったく屈することはないが、今回ばかりは相手が悪い。
なんといっても、彼女たちが対峙しているこの屋敷の主人は、何百年と年を経た古すぎる妖怪なのだから。
「そのようなことはありませぬ。わたくしはおまえ様方のような古い妖魅に指図しようとは欠片も思ってはおりません。よろしいですか、
『じゃあ、どうしてわしらの邪魔をする!! そもそも、わしらがてめえら巫女どもの顔を立てて、わざわざ事前に教えてやったというのに、それをあだで返すつもりかよ!!』
「事前に通告していただいたのは感謝しておりますよ。でも、おまえ様方の行動でこの帝都に災いが起きるというのでしたら、わたくしどもの立場として見過ごすことはできませぬ」
『黙れ、退魔巫女め!! いいぞ、てめえらがあくまでも邪魔だとするというんなら、わしらはわしらで軍を動かすさ!!』
「それは困ります。おまえ様方―――江戸前狸族に好き勝手されては帝都の霊的治安が乱れますからね。やめてください、文福どの」
文福と呼ばれたこの屋敷の主人は、巨大なタヌキであった。
立ち上がれば天井に頭がぶつからんばかりに大柄で、祭りの法被をひもで縛って来ていて、手には竹刀のような煙管を握っていた。
大きなくりっとした瞳とザクザクした剛毛、耳まで裂けた赤い口はまさにタヌキそのものだが、普通のものとは明らかに違うところがあった。
フグリである。
タヌキの睾丸は「狸の金玉八畳敷き」という諺にあるのを追認するかのように、信楽焼きの置物のように、股間から大きすぎるフグリを足元にだらりと広げているのだ。
かのタヌキ妖怪が、たゆうに対して恫喝したときに立ち上がったショックで、文福のフグリがぶらんと揺れている。
こぶしはそれを何とも言えない面持ちで見つめていたが、一方のたゆうは眉一筋さえも動かすことはなかった。
文福は怒鳴った。
『いいか、御所守たゆう!! わしらはな、一年ばっかし前に当選しやがった新しい知事とやらのせいで、えらい迷惑をこうむってきた。今回の件も、何度も都庁のやつらに陳情したのに一向に改めやがらねえ!! だから、わしらはしょうがねえから自分たちでやるってことに決めたのさ。
筋は通っている、とこぶしは思った。
さすがは江戸時代からこの東京に巣食う、妖狸族の長だ。
人間の作ったルールも最大限活用して、自分たちの立場をよくしようと努力している。
実際のところ、今回の問題はこぶしたち人間の側が怠惰にまかせて、重い尻を上げようとしなかったことが原因なだけに、反論のしようがない。
ただし、タヌキたちの行為によって避けがたい混乱が生じるのだけは見逃せない。
「―――文福どののおっしゃることはわかります。ただ、帝都のタヌキたちがこぞって狩りを始めたら、どんな混乱が起きるか予想できません。ここはじっと我慢してもらえないでしょうか」
『い・や・だ・ね!! わしらは明日にでも一族郎党すべてに檄を飛ばして、わしらの縄張りを漁っているあの外来の獣どもを根こそぎ駆逐する―――あのハクビシンどもをな!!』
東京を根城にする妖狸族の長である文福にとって、ここ数年の間に都内のいたるところで爆発的に増加したハクビシンの所業は目に余るものがあった。
ハクビシン―――この中国を原産とする、額から鼻にかけて白い線があることが哺乳類は、餌としては果実を好むがもともとは雑食であり、同じテリトリーに棲むタヌキたちにとって目障りな存在であった。
だが、ここ最近、ただの獣であったはずのハクビシンたちは急激に力をつけ始めた。
江戸時代から人間の住む地域で陰から勢力を伸ばしてきたタヌキたちを脅かすほどに。
「いかにハクビシンが勢力を伸ばしたとしても、人間の世界と深く絡み合ってきたおまえ様方に勝るはずがなかろう」
『な・ん・だ・と!? てめえら、やつらの正体を知らねえでわしらの
たゆうは初めて感情を見せた。
訝し気に眉をひそめただけであったが。
「どういうことでしょうか?」
文福が畳に拳を叩きつけて、
『やつらはな、あの〈雷獣〉なんだぜ!!』
と叫ぶと、たゆうは少しだけ動揺したように、瞬きをした。
それだけだった。
内心でどれほど驚愕していたとしても、素面にはほとんど漏れない、〈社務所〉の重鎮であり、“鉄能面”と呼ばれる女の本領である。
「〈雷獣〉ですか……。まさか、ただのケダモノでしょう?」
『かっ、これだからてめえら人間は役に立たねえってのよ。わしらとあいつらがどれだけ
江戸前狸の長はマットレスのような座布団に胡坐をかく。
『こんなこったら、夏に起きた新しい安保騒ぎの時にわしらも一枚噛んどくべきだったぜ。そうすりゃあ、都の連中も政府筋もわしらの陳情を軽くはとらなかったろうしよ』
「―――おまえ様方、もう昭和四十年代ではないのですよ。あのときのように、騒擾を裏から操るのはやめてほしいものです」
『だったら、わしらタヌキのハクビシン狩りに目を瞑れ。そうすれば、許してやるぜ』
だが、たゆうは一つだけため息を漏らすと、毅然とした姿勢でタヌキの長に向かった。
「それとこれとは話は別です。おまえ様方に好き勝手にあばれられれば、無辜の民草にさえ被害が及びましょう。わたくしたち、退魔巫女は人に仇なす妖怪を倒し関東を鎮守する使命を持っております。それには例外はありませぬ」
『これだけ言ってもダメということかよ、
巫女と妖怪の間に強い緊張が走る。
一触即発とはまさにこの状態を指すだろうという睨みあいが続いた後、たゆうが指を五本立てて、硬すぎる口元を挑戦的に歪めた。
「―――五人、用意します」
『何を言っている? 五人用意する、だと?』
「ええ。おまえ様方も同様に五匹の精鋭を選び出してくださいな」
『―――なんのためだ?』
たゆうは本人的には面白そうな顔をしていると思い浮かべながら、
「ヒトとタヌキの意見が合わぬというのならば、古来からの作法に則って決着をつけましょう。―――五対五の決闘によってです」
ほんのわずかな沈黙ののち、文福はふんぞり返って、巫女たちを見下ろした。
『……いいだろう。だが、わしらの代表が勝てば、此度のハクビシン狩りに口出しはさせぬぞ。それと、今の都知事の首と改修する国立競技場のいくつかの利権をいただく』
「どうぞ、ご自由に。ただ、そうはならぬことでしょう」
『ほお、随分と自信があるようだな〈社務所〉の重鎮よ』
「―――わたくしどもの推薦する五人の退魔巫女は、歴代の
『言うたな、人間!! いいだろう、江戸前の妖狸族の最強の五匹をぶつけてやろう!! 一切合切終わってから吠え面をかくなよ!!』
後ろに控えていたこぶしが思わずのけ反るほどの妖気が座敷内に渦巻いても、たゆうはびくともしなかった。
それどころか、“鉄能面”をさらに歪めて、まるで地割れのように破顔して、自信満々に冷めきった茶を飲み干した。
「こちらが用意する退魔巫女の五人の名は―――
そして、
彼女たちを「敵」とする
―――こうして、五人の退魔巫女と五匹の妖怪タヌキとの決闘の段取りが定められたのである。
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