第377話「蜘蛛の巣は破れた」
柳萩人は、自分の家に辿り着いたとき、かつてない違和感を覚えた。
建物も敷地にも変化はない。
だが、よくよくみると足りないものがあった。
庭にも建物にも異常にとりついた蜘蛛の巣がどこにも見当たらないのだ。
古い、お化け屋敷のようだと思ってはいても、ある理由から意図的に見逃してきたはずの、蜘蛛の巣がどこにもなかった。
普通の人間ならば喜ぶべきところなのだが、柳にとってはまったく逆だ。
蜘蛛の巣がないということの意味合いが、柳と他人にとってはまるで違うのだった。
「どういうことだ?」
柳は鍵を開けて、自分の家に入った。
都内の一軒家であり、ほぼ新築のままだ。
まともに購入すれば八千万は越える家だったので、少なくとも名の知れた一流企業に入ったとはいえ、三十歳にもなっていない柳程度の若造が買えるものではない。
本来ならば。
「おい、晴海」
玄関口で妻―――を呼ぶ。
いつもならばすぐにやってくるのに、声すらも戻ってこない。
おかしいと思い、いつも妻―――がいるはずの居間に入る。
電灯は点いていて、誰かがいるのはわかっていた。
だが、そこにいたのは見知らぬ少年だった。
隣にはパンツスーツ姿のショートカットの女がいる。
こちらも知らない顔だ。
妻―――の友人だろうか。
夫の出迎えもしないで、自分の友人たちを接待していたということか。
しかし、晴海にこんな友人がいるはずが……ない。
そういう女なのだ。
「誰だ、あんたら?」
「お邪魔しています。柳萩人さんですね」
「ああ、そうだ」
「僕は……特に名乗る気はないのですが、京一でお願いします」
隣にいる女は一言も口をきかない。
紹介する気もないらしかった。
「……あんたら、どうして俺の家にいるんだ。あと、うちのは、どうした?」
居間は朝とは様相を変えていた。
ソファーに囲まれていたガラスのテーブルがなくなっていて、台所がぐちゃぐちゃになっている。
まるで誰かが乱闘をしたかのような酷い有様だ。
強盗でも現われた、のか?
だとしたら、目の前の二人はその犯人ではないのだろうか。
その理屈に辿り着いたとき、柳はすぐにでも逃げるべきだったと後悔した。
犯罪者と対峙してなにか痛い目にあうことは耐えられない。
柳は自分がするのならばともかく、他人から何かをされることは耐えられない性分の持ち主だった。
「奥さんは出ていかれました。僕はそのことを伝えるために残っています」
「……な、晴海がでていった…… どういうことだよ!」
柳は戸惑った。
妻としている女が出ていったということが信じられないのだ。
なぜなら……
「奥さんにあなたが掛けていた呪詛はこちらの女性が破りました。もう、法的にはともかく、異種的契約は解除されたとみるべきでしょうね」
「どういうことだ! おまえ、俺と晴海のことを知っているのか!」
「全部、わかっています。あなたが、〈絡新婦〉という妖怪と夫婦の契りを結んだことも、妖怪の力を使って裕福になったことも、〈絡新婦〉の懇願を聞いてあなたを抹殺しようとした奥寺瑛作さんを逆に突き落として殺したことも」
少年は淡々と、柳にとっては致命的ともいえる秘密を暴露しはじめた。
それが柳萩人の人生を終わらせるものだとわかっていての振る舞いであることは明らかだった……
◇◆◇
柳萩人は顔を青くしていた。
しかも、僕の発言を聞いたときに視線を右に逸らした。
僕の経験上、都合の悪いことをきいたときにこういう眼のやり方をする人は嘘をついているか、図星をつかれている場合だ。
「もうすべてわかっています。もともと、あなた自身には瑕疵はない。実家がお金持ちで若くていい男であるあなたを餌食にしようとした晴海さん―――〈絡新婦〉が悪いのでしょうが」
「何のことを言っているのか……。それより、ここは俺の家だぞ!! でてけよ! 警察を呼ぶぞ!!」
虚勢であることは明白だ。
「そんなに怒鳴らなくてもいいです。すぐに出ていきますから。ただ、あなたがこの家に縛っていた〈絡新婦〉はもう戻りません。蜘蛛の妖怪が与えてくれるという富と名声ももう尽きるでしょうね」
「待て!! 本当にアイツは、蜘蛛女はどこかにいっちまったっていうのか! マジなのか!? あの
この柳萩人の父親は、幾つものチェーン店の質屋を経営する金持ちだ。
だから、この家も親からの結婚祝いだと思っていのだけれど、実は違っていた。
柳萩人は自分を餌食にしようと近づいてきた妖怪〈絡新婦〉を、どこで仕入れてきたかわからない呪術を使って逆に虜にしていたのである。
オカルト的には蜘蛛は知恵者の化身であり、コツコツと巣を作り上げていく過程となぞらえて「努力が成功につながる」ことの象徴であるとされていた。
特に水辺に湧く蜘蛛はそういうものらしい。
座敷童の正体が蜘蛛ではないかという説もあるほどだ。
だから、蜘蛛を捉えることで富と名声を得る呪法というものがかつて存在していたのも不思議ではない。
もともと柳の家の繁栄をもたらしたものもその蜘蛛を捉える呪法による結果だったのかもしれない。
獲物を糸で絡めとるはずの蜘蛛が、逆に人間によって縛られるというのは皮肉な話だった。
夫となった柳萩人によって呪縛された〈絡新婦〉は、クモの雌らしく雄を殺すこともできずに、ただ夫婦として暮らすことを強制された。
この点、柳が普通の夫ならば平和な暮らしを送れたかもしれない。
しかし、彼は〈絡新婦〉である晴海が奥寺さんに打ち明けたように最悪のDV男だった。
あのとき、〈絡新婦〉のはだけたセーターから覗いていたものは、紛れもなく痣であったのだ。
夫であるはずの柳から頻繁に受けていた暴力の証しであった。
〈絡新婦〉が妖怪だということを知っているからか、あまりにも殴る蹴るが激しかったらしい。
あまりのことに耐えきれずに奥寺さんに助けを求めるほどに。
呪法の縛りがあって術者を殺せない〈絡新婦〉は奥寺さんに「
それで奥寺さんは惚れていた女の代わりに親友だった男を殺そうとした。
これが事件の真相だった。
ただし、これだけではない。
「自分の裕福な暮らし向きや名声が実は虜にしている妖怪のおかげだということを知られたくないあなたは、〈絡新婦〉に唆されて駅のホームで突き落とそうと魔が差しかけた奥寺さんからの謝罪を素直には受けきれなかった」
「……っ!?」
「奥さん―――と思っているかどうかは怪しいところですけど―――と親友が不倫した挙句、自分を殺そうとしていたことよりも、あなたは自分の生活が脅かされたことが我慢ならなかった。〈絡新婦〉のことを奥寺さんがどれだけ知っているかもわからない。だから、あなたは口封じも兼ねて、奥寺さんを駅のホームから突き落として殺害したんだ」
今度こそ、柳は崩れ落ちる。
妖怪との欲得まみれの結婚生活よりも、中学からの親友を疑心暗鬼の挙句に殺してしまったことを見抜かれたのがショックだったのだろう。
イケメン顔が五歳ほど老けたかのようだ。
「……あなたにもう少し、優しい心があればこんなことにはならなかったと思いますよ。僕はあなたを警察に告発する気はありませんけれど、もし、親友であった奥寺さんのことを思う気持ちが少しでもあるのなら、自首することをお勧めします」
すると、崩れ落ちたまま呆然としていた柳が言う。
「あんなどんくさい奴、親友なんかじゃねーよ。……知ってっか。カマキリの雌に食われる雄ってのはな、雄の中でもどんくさい奴だけなんだよ。スマートな奴は、馬鹿な女になんか食われたりしねえんだ……」
自分がスマートだというのだろうか。蜘蛛ならぬ蟷螂を例えに出すのは皮肉のつもりだろうか。
まあ、別にいいさ。
僕の知ったことじゃない。
「そうですか」
僕はそのままこぶしさんと一緒に柳家を後にした。
お互い会話はない。
メルセデス・ベンツ・W222のところにまで戻ってようやく彼女が口を開いた。
「……奥寺瑛作の死についての責任はとれたかしら?」
「自殺でないということがわかっただけで、僕の責任はなくなるのでしょうか」
「そうね。でも、今回のことにあなたに責任があるというのなら、それはただの考え過ぎね」
「……でしょうか」
こぶしさんはこちらを見ない。
「あなたは、普段からよく考えて知恵の力というものをよく示してくれているわ。〈一指〉の強運よりも、私たちからするとその思慮深さにこそ助けられているの。ただ、考え過ぎのきらいがあるわね」
「考え過ぎですか」
「ええ。今回の件、奥寺瑛作を助けようと思わなかったのは、第一に或子ちゃんたちへ負担をかけさせまいということを考えてしまったからでしょ。そうでなければお節介を焼いたはずよ」
「―――そう、かもしれません」
確かにその通りかもしれない。
「だから、あなたは時には最大の長所である考えることよりも、感じた心のままに決めることも必要よ。―――
有名な截拳道の始祖の言葉だ。
まさか、僕への忠告になるとは思わなかったけど。
「……そうですね」
僕は感じる。
最近頭を占めていた、このまま〈社務所〉の関係に、御子内さんたちとついていくのは、僕のようなつまらない人間がするべきではないのではないかという疑問への答えを、思考ではなくて感情で判断するために。
そして、僕の瞼の裏に浮かんできたのは、頼もしい御子内さんの背中だった。
ならば答えはもうでたも同然だ。
「―――御子内さんと一緒に退魔行を続けていいでしょうか。僕なんかで良ければ」
すると、こぶしさんは握手のために手を差し出してきた。
戦闘用の手袋は脱がれていた。
これは仕事ではなくて、私人としての握手ということだろう。
それを握り返すと、
「わたしたちはあなたを頼りにしているわ。信じてくれていいからね」
「ありがとうございます」
僕はちょっと涙を流してしまい、こぶしさんの熱い握手から手を放せなくなっていた……
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