―第64試合 妖魅都市〈新宿〉 2―

第500話「御子内或子と地底の邪神」



 飛びかかってくる無数の粘液体を〈気〉をこめた拳で薙ぎ払い、敵の不定形の躰を支配する唯一の臓器である脳髄を破壊しつつ、御子内或子は前進を続けていた。

 いつもの格好に見えて、或子は全身のあらゆるところに護符を貼りつけて、さらに耳なし法一のごとく呪文を墨で書きつけた結果、ほとんど歩く護法状態でありながら、その効力がガリガリと削られていくのを感じていた。

 さすがにこのままではジリ貧だと認識していても、進まずにはいられない。

 いや、自分が止まってしまってはならないという使命感だけが彼女を支配しているともいえる。

 珍しくメンタルの面での不安もあった。

 いつもならば隣か後ろにいてくれるはずの相棒がおらず、並んで戦ってくれる親友たちもいないというのはさすがに応えていたのだ。


(ボクとしたことが、いつのまにか誰かに頼ることを覚えてしまっていたのかな)


 或子は過去を思い出す。

 ただ一人だけで五行山の麓で虐げられて、生きるのだけを目的としていた獣の日々を。

 父も母もなく、頼りになる大人はどこにもいない、自らの野生だけが頼りだったあの時を。


(―――助けてもらうってことの意味がわからなかったんだっけ)


 どういう訳か、日本語だけはよく覚えていたが、それを使う時はなかった。

 それよりも意味のわからない言葉を使う外国人やそれに使われる〈妖物〉や怪物から逃げまどうだけの日々だった。

 長い間、石に押し潰され、閉じ込められ、そして地震らしいもののおかげで解放されても、ずっと理由もわからず猛獣のように狩りたてられる日々。

 最近、温かい人の営みのなかにいたせいで忘れていた。

 もともとボクは屍山血河のなかでもがいていたものだったはずなのに。


(……まあ、それも仕方ないか)


 親友たちは言う。

 自分を変えたのはオマエだ、と。

 オマエのふざけた戦い方が自分たちを否応もなく変えたんだ、と。

 道場に遅れて入ってきた御子内或子が、あたしたちをどうしようもないバカにしてしまったんだ、と。

 音子もレイも藍色も皐月も、みんなそんなことを言う。

 顔を合わすたびにだいたい似たようなことを言い出して、最後は以下同文である。

 ふざけんな、であった。

 ボクにそんな力はないし、そんな気持ちもない。

 ただ、死に物狂いに我武者羅に戦うための方策を練り実践し続けていただけだ。

 おまえたちこそ、とうていまともじゃない力を生まれつき持ってやがったじゃないか。

 あんな天才肌の連中に勝つためにどれだけボクが苦労してきたのか知らないのかよ。

 親友たちと或子の議論は常に平行線をいく。

 どちらも正しくて、どちらも間違っている。

 たった一つ正しいのは、あの数年間があったからこそ、彼女たちがあるということだ。

 そして―――


(今の一年と半年があるから、ボクらはきっと最強の媛巫女になれた)


 ということであった。

 次々と湧いて出るように現われる粘液のような怪物どもを一匹一匹丁寧に潰しながら、御子内或子は歩く。

 その歩みは今までに繋いできた彼女と他人との繋がりにも似ていた。

 

『ピギャアアアアア!!』


 どこに口がついているかもわからないような不定形な化け物の弱点である脳幹を一瞬で見抜き、拳で貫いていくのは退魔巫女としての修業の甲斐であった。

 こればかりは実戦でしか学べない戦場での経験というものか。

 例え、どのような敵が来たとしても正面から受け止めて、攻撃を弾き返し、逆転の技を叩きつけるいくさの阿吽の呼吸。

 不自由な軛ともいうべき〈護摩台〉で戦うことで見についたものである。

 今日にいたるまで或子が戦った妖魅は二百を超える。

 そして討ち滅ぼした数はそれとほぼ並ぶ。

 通常、〈社務所〉の巫女が生涯で討ち果たすことの可能な妖魅は三十ほどが限界であった数十年前とは桁違いの戦功であった。

 この勲は、本来ならば互角などということはあり得ない戦力差をもつ妖魅との戦いを五分近くまで引き下げる〈護摩台〉の結界のおかげである。

 あの理不尽で奇妙な戦いの舞台が少女を戦鬼へと変えたのであった。

 或子と同様に〈護摩台〉にフィットしたと思われる同期たちの戦績もまたこれまでとは比べ物にならないほど凄まじい。

 明王殿レイは三百超え、神宮女音子は百五十、刹彌皐月と猫耳藍色はブランクもあったが、それでも五十を超えている。

 ほとんど毎週のように妖魅と戦って狩ってきたものたちばかりなのである。

 一方、それだけの戦績があるということは妖魅活動が活発化しているということもあった。

 海外からも続々と新種の怪物たちが訪れ、人間から化けた殺人鬼や悪霊が跋扈する現代のこと、あるオカルティストは―――「人類の黄昏」と呼んだ。

 その衰退の時代だからこそ、或子たちは牙を研いでいられたのかもしれない。

 やがてくる神と戦うために。


「でりゃあああ!!」


 思考のない敵の相手はシステム化しているためか、或子からすれば大変読みやすい。

 逆にフェイントのような小手先の技にかかりにくいという弊害はあるが、彼女本来の闘法を駆使すればほとんど赤子の手をひねるようなものだ。


フン!!」


 隣で究極の投げ技〈捨聖〉を使っている一遍僧人の存在は今となってはありがたい。

 何しろ触れたら最後、どんな化け物でも投げ飛ばしてしまう技の使い手なのだ。

 しかも、その投げ技は遠心力がかかるため、液体ではない粘液のような怪物にとっては逆に効果的な業だったのである。

〈八倵衆〉の〈捨聖〉は次々と迫りくる怪物たちを投げ捨てて、陣の中央に穴をあけていく。

 別の神の使徒が海を割るかのごとく。


「おい、大猿の巫女よ。あそこに見える黒い蟠りが神か」

「―――多分ね。想定よりも大きい。動きだしたら、ボクもキミもおじゃんだよ」

「ぞっとしない未来を語るな」


 二人がほとんど歩みを止めず進む先には、確かに巨大な小山のような影が蹲っていた。

 一般の感性ではそれが生き物だと想像するものはいない。

 だが、二人は退魔巫女と破戒僧侶だ。

 目指すものが人や現実とは相いれぬ存在だということも嫌という程理解していた。

 その思考の結果、行く手に待ち受けるものを許容するしかない。


「……でかいな。あれが土の邪神か」

「―――言葉が通じるとは思えないね。でも、仕方ない。話しかけてみるか」

「アテはあるのか、巫女よ」

「一応ね。こういうのを借りてきた」


 或子は背中のバッグからやや大きく、無骨な書物を取り出した。

 一遍僧人が眼を眇める。


「それが〈螺湮城本伝〉。本物なのか」

「平安時代の写本だけどね。さすがに本物はないみたいだよ。ただ、これだって直接、持ち主様から借りたから間違いはないはずさ」

「―――ならば、疑いはしまい。疑問をもつだけで不敬だ」

「仏凶徒のくせに神妙だね」

「だからこそだ」


 そして、或子はその書物と呼べそうもないボロボロの紙の塊を掲げて眼前の小山に向けて叫んだ。


「初めましてだ、ツァトゥグァ!! か弱き人を代表してあなたに挨拶をしに参上した!! ぜひ、話を聞いていただきたい!!」


 山が動いて、わなないた。

 宇宙にも比すべき暗黒の深みに淀んではまったような存在がいた。

 身体は巨大なのに、どこか卑小な翼を持ったぬめりとしたものだった。

 一瞬で退魔巫女と〈八倵衆〉の魂までも破壊しにかかる威容。

 まさに妖魅を越えた妖魅―――神であった。

 無明の闇に棲まう絶対的悪夢。


「土の星辰に位置するというツァトゥグァ。やはり新宿の地の底にいたのか」

「いいや」

「なんだと」

「この〈ン・カイ〉はたぶん新宿の真下にはない。きっと別の次元に繋がっているはずだ」

「―――というと?」

「キミたちが地震をもってこいつを起こそうとしたのは間違いだったのさ。接触を図るならこうやって直接近づくしかない。それが〈社務所〉の結論だ」


 すると、一遍僧人は眉をひそめた。


「待て。ならば、なぜ、迦楼羅王や夜叉王は新宿に現われたのだ? うぬはそう拙僧に言ったはずだ。あれは騙りであったのか?」

「嘘は言わないよ。現実に、何人かの〈八倵衆〉が東京に入ったのは確かさ」

「では、なぜ?」

「それは簡単さ。―――今はちょうど都知事選の真っ最中だろ。そういう風流に紛れて何か陰謀が企まれるのは昔からの習慣のようなものだ。おそらく、キミら救出するとかは考えなくて、もっと凄惨な計画を立てているんだろうね」

「それはなんだ?」


 或子は答えた。


「多分、虐殺ジェノサイドさ。―――さあ、ツァトゥグァ!! 取り引きといこうじゃないか!! キミは帰遷する神の中でももっとも話のわかる柱だと聞いている。ボクと―――人類と物々交換をしようよ!!」


 或子が口にしたのはそれほど突拍子もないことであった。


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