第334話「―――哀」



 花畑の存在自体については、皐月に驚きはなかった。

 幻想的な光景などというものは〈社務所〉の退魔巫女を続けていれば、幾らでも拝めるものだからだ。

 それにこの事件に赴く前に、夏ごろに同期の御子内或子が遭遇した奥多摩の事件についてのレポートは読んでいた。

 書いたのは升麻京一という少年だが、よく整理されたレポートであまり書類仕事が好きではない皐月にもわかりやすかったということもある。

 奥多摩を通っている日本の霊的エネルギーの龍脈が、ここ最近乱れておかしな現象が多発していることも承知していた。

 だからという訳ではないが、幻想的に咲き乱れる花畑に対しても虚心坦懐に受け入れてしまうことは難しくなかったのだ。

 彼女にとって扱いが困ったのは、そこにいた三人の関係性だった。


(あいつは……〈サトリ〉だよね。妖気もあるし、伝承にある通りだし)


〈サトリ〉という種族とは言えない妖怪については、〈社務所〉でも十分に目撃例や退治例が採集されているので認識はできた。

 問題はその前にいる坊主―――聯頭という外道の僧侶と、〈サトリ〉の背後にいて何やら苦しんでいる女の存在だった。

 あの白い着物は屍衣だということは、例の死んでしまった家出娘で、聯頭が生き返らせたということになる。

 だが、三者の立ち位置はどうにも把握できない。

 まるで、〈サトリ〉が娘を僧侶から庇っているようにも見えるが、どうしてそんなことになっているのか。

 神ならぬ皐月には思いも及ばぬ展開になっているようであった。

 ただ言えることは……


「降三世明王法といえば、過去・現在・未来を支配するというシヴァを倒した降三世明王の真言だけど、闇ではその外法的な使い方が伝わっているそうだね―――」


 もともと神社の出身ではない皐月の知識ではおぼつかないところがあるが、以前、習ったことのあるものならわかる。


「シヴァはその力をもって時空の制限を一切受けない神であったというね。時間と空間という神々でさえも縛るはずの法則を超越して、あらゆる時と共に存在し、すべての空間に接することができたという。その「ひとつにして全てのもの」「全てにしてひとつのもの」という力を奪ったのが降三世明王という伝承があり、過去・現在・未来においてその真言は力を発揮するという。死人返りという過去を甦らせる邪法にはお似合いの真言マントラということみたいじゃん」


 聯頭の唱える真言の正体を皐月は見抜いた。

 そして、それが指し示すものも。


「坊主の格好をしているけど、あんた、外法の魔術師じゃないのか? うち、あんたみたいなの、マサチューセッツやボストンで見たことあるなあ。どいつもこいつも人間とは思えない外道揃いだったけどさ」


 皐月は花畑に踏み込んだ。


「―――確か、ヨグ・ソトト教団とかいったっけ。まったく、あっちの連中も大概だけど、あんたみたいなのもホント、胸糞悪いよ。事情はわからないけど、とりあえずあんたは拘束させてもらう。〈サトリ〉は後回しだ」


 すると、聯頭は、


「おぬし、〈社務所〉の媛巫女か? ……関東鎮護の武闘派というが、拙僧も初めて見るぞ」

「あんたには関西訛りがあるね。大方、上方の仏狂徒に追われて流れてきたんだろうけど、関東で邪法を広めようとするのなら、それはうちらの敵そのものさ」

「―――吠えるな、小娘」

「ヤー公の手先よりはマシじゃん」


 だが、先に動いたのは〈サトリ〉だった。

〈サトリ〉は遅れてやってきた巫女よりも聯頭を方を殺すべきだと考えていた。

 真言を唱えるときの強烈な精神集中のせいで心を読み取ることが難しくなっていたが、巫女との会話の際に隙ができた。

 そして、聯頭がいずみに対してなにをしたのかも把握した。


 このニンゲンは殺さねばならぬ


 単純な衝動に従って、鎌を振りかざし、〈サトリ〉は花畑を駆けた。

 やはり一輪の花も折らず、踏みつけもしない、優しさに満ちた足取りで。


 殺す


〈サトリ〉は一瞬にして聯頭の目の前に辿り着き、鎌を振り下ろそうとした。

 だが、振りかざして、喉元を掻き切ろうとした瞬間、〈サトリ〉の眼の前に離れたところに立っていたはずの巫女が現われた。

 彼よりも早く動いて割って入ったのだ。


「気持ちはわかるけど、させるわけにはいかないんだよね」


 皐月の手が伸びる。

 双手は鷲掴みの形だ。

 何もない空間を掴み取る。

 そのとき、皐月の目には〈サトリ〉の放つ殺気が黄色の煙のように見えていた。

 妖魅黄土と呼ばれる色であった。

 殺気を視ることのできる刹彌流の使い手だからこそ視認できる色。

 それを服の襟元を掴むようにがっしりと捕らえ、勢いの赴くままに引きつける。

〈サトリ〉は触られてもいないのに何故か自分の身体が引き寄せられていくのを感じた。

 


「チャェストオオオオオオ!!」


 裂帛の気合いとともに、〈サトリ〉を投げ飛ばした。

 妖怪にすらわからない古武術・刹彌流柔による秘儀である。

〈サトリ〉は受け身も取れぬまま、地面に叩き付けられた。

 そこには花は咲いておらず、一枚の花弁さえも散らなかった。

 あえて皐月が避けたのは明白である。

〈サトリ〉はその恐るべき技によって頭から叩き付けられ、動くことさえもできなくなった。

 人によく似た妖魅故に、〈サトリ〉の耐久性はそれほど剛くないのだ。

 だが、反撃しよう思えばできない訳ではない。

 事実、〈サトリ〉は落下の衝撃を受けても鎌を手放していない。

 しかし―――


『……花どもが、いたいって言ってねえや』


 万物の心を読める〈サトリ〉にだけはわかった。

 妖怪である彼にすら先回りするほどの速度で回り込んでいながら、一切の花を踏まずにいたという事実を。

 そして、〈サトリ〉を投げる際に花を散らさないように土が剥き出しの場所を選んだということも。

〈サトリ〉は人の心が読めるからこそ、相手の真価を間違えずに読み取れる。

 だからわかる。

 あの、巫女は―――善きものだと。


『やりあいたかあ、ねえよな……』


 巫女が僧侶を〈サトリ〉から護ったのは、あいつが善きものであるからだ。

 それもわかる。


「―――聯頭とかいったけど、あんたについては、うちで拘束させてもらうけどいいかな。死人返りなんて邪法を使ってヤー公に与するなんてとてもじゃないけど認められないんでね」

「……関東最高の退魔組織〈社務所〉か。だが、拙僧はただの僧侶だ。拘束しても無駄になるぞ。それに、ヤクザが黙っていないかもしれんぞ」

「この有様を見ればヤー公なんて何もできないって」


 周囲に蠢く二十人ものヤクザの死傷者を見て、さすがの皐月も陽気には振る舞えない。

 とにかく、下手人である〈サトリ〉よりもこの事態を引き起こした邪法の使い手を拘束する方が先決だと考えたのだ。


「下手なことを考えない方がいいかな。うちにはあんたの動きがお見通しだから」


 攻撃をする際に、どんな人間でも殺気を発する。

 である以上、皐月の不意を突いて他人に害を加えようとする真似は誰にもできない。

 聯頭がどんなことを企もうと皐月は問題なく処理できるはずである。

 だから、気が付かなかった。

 他の退魔巫女だけでなく、普通の人間ならば音やその他の気配ですら敏感になっただろうに、皐月はあまりにも殺意そのものに特化しすぎた。

 だから、わからなかった。

 

「ま、待て!!」


 いつのまにか皐月の後ろに近づいていたいずみと、その手に握られたナイフに。

 だから、反応できなかった。

 何の感情も見せないいずみが聯頭をナイフで刺してしまったことに対して。

 死人には殺意がないから、皐月は油断してしまったのだ。


「おぬし、何をするぅぅぅ!! おぬしを生き返らせてやったのは、拙僧だぞ!! 金を出したのはこのヤクザどもだぞ!! おぬしは恩を仇で返すのか!!」


 聯頭は胸に深々と突き刺さったナイフを信じられないものを見る眼で見つめながら、叫んだ。

 明らかに断末魔のものであった。

 自分が死にゆくことに気がついてしまったのだ。


『……死んだ人間が涅槃から喜んでけえってくるもんかよ。おめは、いずみに恨まれてんだよ。復讐かたき討たれんたんだよ。ざまァねえ』


〈サトリ〉は哀しそうに言った。

 本来は優しい娘であったはずのいずみが、恨みから人を刺してしまったことを悲しんでいるのだ。

 しかも、こんなに美しい花園で。


『ちげえか。もうここは血と腸で汚れちまってたなあ』


 ほんのわずかな時間、妖怪と死人が寄り添った世界はもうない。

 操り手の聯頭が死ねば、いずみの死人返りも解ける。

〈サトリ〉はもういずみがいなくなることを悟っていた。


『もお、終わりだあな』


〈サトリ〉には、喜怒哀楽の、哀がないはずなのに―――

 それなのに能面のような顔から涙が零れることを止めることはできそうになかった……


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