―第44試合 巫女レスラーゼロ―

第335話「狼の呼ぶ声」



「ここで待っているんだ」


 俺は布団にくるまって体育座りのまま震えている女子大生にできる限り優しく話しかけて、下手に動かないように釘を刺すと、閉じたカーテンの隙間から外を見ました。

 もちろん、隠れていることがわからないように、自撮り棒に手鏡をつけてそっとです。

 相手が相手なのでそのぐらい石橋を叩いて渡る用心は必要でしょう。

 少なくとも窓の外には誰もいませんでした。

 ここが三階だということを考えれば、窓から侵入される可能性は低いはずです。

 ただし、普通ならば。

 俺が籠城を決め込んだこのマンションの一室に迫りくる危機を考えると、三階だからやってこないとは断言できません。

 少なくとも、俺がこの部屋に匿っている女子大生から聞き取りをした範囲と、これまでの事例からすると、やってくるならこの窓が一番確率が高い。

 

「それは……なに……?」


 女子大生が俺の持っているものに気が付きました。

 ごく普通の大学生の持ち物にしてはとても異様なものだからでしょう。

 彼女の目に不安と恐怖が宿りました。

 とはいえ、今回ばかりはこれがないと超困るんですけど。

 だから、気にしてはいられません。


「拳銃ですよ。まだチェコスロバキアだった頃に製造された自動拳銃でCz75―――のモデルガンです。端的にいえば玩具ですね」


 俺はグリップのところの東京マ○イの刻印を見せました。

 それで納得するかはわかりません。

 まともな女の子は東京マ○イなんて知らないはずですから。

 ただ玩具という俺の言葉を完全に信じてはいないようでした。

 まあ、仕方のないところでしょう。

 そうでなければ、こんな危なすぎる状況下でモデルガンを振り回しているバカな奴ということになってしまいますから。

 

 ―――まあ、本当にモデルガンなんですけどね。


 とりあえず、玄関のドアの強度は確認してあるので、あれをぶちやぶって入ってくるということはないでしょう。

 浴室もトイレも窓はないし。

 壁なんか障害にもならないという化け物であったのなら、立て籠もること自体がそもそも意味がない。

 だったら、車か単車を用意して逃げ回った方が遥かに楽です。

 時間があったら武蔵立川の実家に置きっぱなしのゼファーを用意してもよかったのですが、事態は緊急を要するものだったのでそこまではできませんでした。

 それに逃げ回っていても仕方ない。

 まだ素直に立ち向かった方がマシというものです。

 怪奇現象やら怪物やらに立ち向かうときの基本は一つです。

 無闇に恐れずに挑戦し戦うこと。

 そうすることでようやく逆転の目がでてくるのですからね。


「……朋輪ともわくん。やっぱり警察に行こう。このままだと殺されちゃうよ……」


 女子大生―――尾野屋亜香里は震えながら言った。

 このままいけば自分だけが殺されるのではなく、助けを求めた従姉妹が紹介してくれたこの俺にまで迷惑がかかると考えたんでしょうね。

 元凶は自分にあるとしても、そのことでお人好しにも駆けつけてくれた見ず知らずの人間まで危険に曝すことはできない。

 少し喋っただけでも、この尾野屋がそういう人であることはわかります。

 俺はこの女性の従姉妹と友達なんだけど、やっぱりあの尾野屋の血筋なんだなと嬉しくなる感じがしました。

 

「そもそも警察が信じてくれないから、あなたは尾野屋を頼ったんでしょう? それであいつは、あいつの知り合いの中で唯一この手の事件に立ち向かえそうな俺に救助を要請した。だから、俺はここにいるんです」

「でも……あの化け物は……」

「まあ、化け物の類いであることはわかります。あんなの絡まれることになった不運についてだけは同情しますけどね」


 この亜香里と合流した立川駅の改札で、俺たちは正体不明の男に襲われたのです。

 そいつは薄汚れたボロの服を着た、いかにもホームレスという風体でありながら、魂まで震えあがるような憎しみに満ちた眼をしていました。

 男は産まれてこの方一度もカミソリを当てたこともないかのように剛毛のヒゲを生やし、ツバのない帽子を被って、人混みの中を歩いてきました。

 汗と小便の臭いでとてつもない悪臭を発していて、すれ違う人たちが勢いよく鼻を押さえないとこらえきれないほどでした。

 LINEの会話ですぐに亜香里と合流したら、彼女というか俺たちめがけてくる男に気が付き、聞いてみました。


「あいつ、かな?」


 亜香里は恐怖で引きつった顔で頷きました。

 ただのホームレスのストーカーならばまだいいんだけれど、尾野屋からの連絡ではそんな範疇ではくくれない相手のようでした。

 男は亜香里よりも俺を強く睨んできました。

 おそらく、彼氏だと誤解されたんでしょう。

 俺が聴いていたのは、「自分の従姉妹がとても人間とは思えない相手にストーカーされているから助けてやってほしい」というものだったから、相手は亜香里に好意を抱いているに違いないはず。

 そんなストーカーが一見男連れの彼女を見て逆上するのはわかります。

 だから、普段ならもう少し隠れているはずなのに、人目も憚らず姿を現したというわけだったようです。

 立川駅の中央改札は人通りがある割には、広い通用口となっているので、隠れ場所が少なく、男がやってくる様子がよくわかりました。

 俺はとりあえず彼女を庇って、男と対峙する。

 汚れまくっているが、やはりただのホームレスではなかったようです。

 眼光が異常なほど、肉食獣めいて鋭い。

 これはそれだけでまともな相手ではないと感じました。

 周囲の人たちもおかしい雰囲気に勘付いたようで、何人かが警察官のもとに駆け寄っていきます。

 喧嘩かトラブルの類いだと思ったのでしょう。

 普通ならそう考えます。

 でも、俺はそんな些細なものとは考えていませんでした。

 随分と久しぶりのことになりますが、これから起きるのは殺し合いになるだろうと勘が告げていたからです。

 二十メートルほど近づいたところで、男は立ち止まり、のけぞって大きく息を吸い、それから吐きだしました。

 裂帛の雄叫び。

 戦場ではなく、荒野でイヌ科の凶暴な生き物が哭く声。

 狼の……コエ。

 男がかっと開いた口腔には、鋭い肉きり歯が生え、とても人のものとは思えない突き出した鼻づらに変化していく。

 脚の関節が逆方向にねじ曲がり、踵が割れてなくなっていく。

 手の甲には夥しい剛毛が生えそろい、爪がぐいぐいと延びて、刃物のように尖りだす。

 ああ、俺にもわかりました。

 こいつは、こいつは……


「ああ、あああ……!!」


 亜香里が芸もなく狼狽えています。

 彼女は薄々わかっていたが、やはり目の前で変貌メタモルフォーゼされてようやく真実を把握することができたようでした。

 そんな俺だってこんなことが起きるなんてさすがに想像していなかった。

 かなり危険な変質者程度だと思っていたのに、まさか―――

 まさか―――


「狼男だったとは……」


 異常に気が付かないどんくさい通行客を突き飛ばして、狼男が駆け寄ってくる。

 まだ人間の面影はあるけれど、どうしたってただの怪物でしかないのです。

 俺は狼男と接触し、その牙が首筋に届く寸前、身体を捻り、ホームレスらしい薄汚れたコートの襟を掴み、左手は抜き手にして逆に喉元に突き立てる。

 本気でやれば咽喉ぐらいに穴があけられるはずの抜き手でも窪みもしない頑丈な皮膚のせいで邪魔されました。

 咄嗟に攻撃を切り替えて、腰をまわして投げる。

 小さなころから習い覚えた室賀流柔術の基礎的な投げを使ったのです。

 古武道の柔術なので、今の柔道と違って投げるというよりも転ばす形になるのですが、それでも背中からコンクリートに叩き付ければ呼吸ぐらいは止まります。

 狼男も生物であったらしく、息を吸ってはいてぐらいのするのでしょう、動きが完全に止まりました。

 一瞬だけですけど。

 でも、それだけで俺は十分でした。

 三十六計逃げるに如かず。

 以前、下手に踏みとどまって失敗した経験から、俺は危ないとみたら一直線に逃げ出すことができるという高度な判断力を学習していたのです。

 亜香里の手をとって、一心不乱に逃げ出したおかげか、狼男がすぐに追いかけてくることはなかった。

 俺の投げに驚いたせいもあるとは思いますが。

 ただ、完全に撒けるなんて思っていません。

 だって、亜香里の言うことに従えば、


「あの人……イヌみたいに臭いを嗅いでつけてくるの」


 だそうなので、この俺が一人暮らしをしているマンションだって文字通りに嗅ぎつけられる恐れがあるからです。

 では、どうすればいいのか。


「まあ、頑張って撃退してみせましょうか。ちょっと考えもありますし」


 亜香里の不安そうな顔がうっとうしいけれど、俺も恨みを買っているかもしれないので、やることはやらないといけないんで真面目にすることにしました。

 狼男のストーカーと殺し合いみたいなことをする羽目になるとは……

 実は姉もこういう目にあったことがあるし、俺もその時に病院送りにされたという過去があるのです。

 まったく、どうやら俺の家系は呪われているようですね。

 いや、実際のところ、俺だけなのかもしれませんが。


 ピンポーン


 そのとき、インターホンの電子音が鳴りました。

 意を決して応答してみます。

 相手が狼男の可能性があるからです。

 でも違いました。


〔――301号室の住人かな。ボクのいうことを良く聞いて欲しい。ボクはキミを狙っている〈人狼〉から助けるために来た。信じてもらえるのなら、返事をしてもらえないかな?〕


 狼男のものとは全く違う、若い女の子の声がインターホンから流れてきたのでした。


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