第404話「愛染明王聖転弓」
愛染明王は、煩悩を悟りに変えて、菩提心に導く力を持つ仏である。
愛憎、欲望、執着といった煩悩はすべての人に宿り、それを悟りの境地によって聖なる力へと導くというのだから、おそらくどの仏よりも人に近しい柱なのであろう。
囂々と燃えたぎる炎をまとい、三目六臂の異形を持ち、すべてを叩き伏せるかのごとき忿怒の貌をした姿で現されることが多いが、実は衆生済度の為、諸々の悪なる存在を追い祓う、明王の中でも最も優しく、愛敬開運を授けるという。
梵名は「ラーガ・ラージャ」という、「愛染」=「藍に染める」愛染明王は、不動明王と並んで信仰されている仏である。
経典『
成田山を守護する明王殿レイが不動明王の力を持ち、川崎大師の神宮女音子が大威徳明王の術を継承するのならば、刹彌皐月はその魂に愛染明王の御姿を見出された化身であった。
皐月は知ることもなかったが、彼女が中学に進学すると同時に生家を追い出され、家伝の刹彌流を継げなくなった理由はそこにあった。
彼女の父である
産まれたばかりの娘を一目見ただけで、その身に宿る神仏の輝きを理解したのだ。
たゆうは、皐月の魂が愛染明王の力を宿していることを認め、思春期に達したら〈社務所〉に預けるように勧めた。
さすがの櫻斎にも、これほど強い巫女になれる才覚をもつ娘の育成はできないと判断したからだ。
ただし、刹彌流柔そのものは武器となるため、その伝授も同時に勧めることにした。
愛する娘に遺せるものが技だけだと悟った櫻斎は、慎重にしかし大胆にただ一人の娘に家伝を教え込んだ。
家伝の伝承そのものはただ一人の弟子に継がせることにしたが、すべての真髄は叩き込んだと自負できるほどに熱心に教育された皐月は、中学までにはほぼ刹彌流をマスターできたのである。
そして、父と娘は決別した。
明王の娘と人食いの修羅はともに歩めぬのだ。
「
皐月は
人も妖怪も放つ殺気は同じだ。
巷で評判の共感覚と同様に、皐月はすべての殺気が視える。
他の生き物を害そうとする負の気配を。
あの妖怪〈以津真天〉のものでさえ。
(おまえがただ、無残に放置された死体のために鳴くだけの妖怪ならうちは勝てなかっただろう。でも、おまえは殺意を抱いた)
周囲に転がるヤクザどもには一切同情なんかしない。
こいつらがしでかしたことだからだ。
あのパレットの上のドラム缶の中に何が詰まっているか、すでに皐月は理解していた。
きっとあの中には―――ぎゅうぎゅうのコンクリートと一緒に―――死体が詰まっている。
福祉の美名のもと、弱者の中の弱者を食い物にするまでは理解できる。
だが、命尽きた後までもその命を貪るのはおふざけが過ぎるというものであろう。
「憩いの村」の敷地内で瀕死のまま蠢くヤクザどもは、劣悪な環境の中で死んだものたちを生きていることにして、さらに生活保護の受給を受けていたに違いない。
死んで無価値になったものさらに利用する。
リサイクルだ。
皐月は鼻で笑う。
うちにとって死んだ人間は殺気を出さないから認識できない―――むしろ危険な存在だ。
殺気を出さないものをいたぶるなんて怖くてできないのに、こいつらはそれを儔著なく行うのだ。
どこぞの森の〈食屍鬼〉のほうがまだマシだった。
「だから、おまえが怒っているのもわかるよ。でも、ダメだ」
とてつもない殺気が、皐月の視界には虹のように尖って貫いてくる。
これは普通の人間には決して視ることができない世界であり、祝福だ。
父が授けてくれた生き物の業だ。
妖怪ですら放てる存在の叫びだ。
ただ、それを理不尽に振るうことは許されない。
なぜなら―――
「―――どんなに嫌な奴がいても、そいつをぶん殴らない偉いやつが世の中にはたくさんいるんだから」
〈気〉を引いた指先に込める。
習い覚えた気巧術ではなく、皐月の全身にもともと秘められていた力を。
愛染明王の力を。
「
よっぴいて放たれた鏑矢は寸分の狂いもなく、虹色の殺意をたどり、天空の隅で死をまき散らすつもりで飛んでいた〈以津真天〉の丸い頭を貫いた。
『いいいいいいつつつつつつまままままままで………っっっっ』
明王の降魔の矢じりは過たず妖怪の急所を破壊した。
断末魔もあげることなく、巨大なる怪鳥の怨霊は消滅していく。
下から見守っていたヴァネッサには見えない遠い場所で決着はついたのである。
一方で梓弓を執った皐月は複雑な表情を浮かべていた。
勝利の余韻は微塵もない。
「……こいつら、どいつもこいつも死ぬまではいっていないんだよ」
ヤクザたちは全員意識を失ってはいたが、まだ命までは奪われていなかった。
「誰だってさ、自分の死体が粗末にされれば嫌なもんだし、友達の死体がごみ扱いされれば怒るよな」
皐月はドラム缶を数えた。
七つあった。
「いつか、この
それは無残な最期を遂げた人たちの呪いの言葉だ。
「でも、その時もまたあなたが止めればいいだけのことでしょ。あなた、そういう決意、なんだかんだいってきちんと守るタイプだから」
「そーかな」
「そうよ」
「ネシーがいうなら信じよう」
「やっぱりやめるわ。あなたが素直だと気味悪いから」
「ひでえや」
少しだけ皐月は微笑んだ。
彼女らしくない、ちょっとだけ爽やかな笑いだったと、ヴァネッサが死ぬまで忘れることのなかった、そんな微笑であった……
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