第495話「帝都の熱い一日」
その日、僕は一人で山手線に乗っていた。
特に目的のある行動ではない。
ただ、無意味に時間を浪費していたかっただけだ。
都内のいたるところで騒がしいのは、もうすぐ都知事選挙があるからであった。
色々あって東京都の前の知事が辞職して、もうすぐ都知事選挙も始まろうとしていたからである。
とはいえ、まだ十七歳の僕には選挙権はないし、それどころではない問題を抱えていたためにそっちの方面には全然興味を持てなかった。
むしろ、人間の僕なんかよりも江戸前の妖狸族の方がなにやら工作に忙しいらしく、分福茶釜や八ッ山のタヌキなんかとは連絡が取れない状態である。
タヌキたちはこうやって時の政権に影響力を及ぼし、利権やら何やらを得てきたのだとよくわかった。
僕に近いといえば、〈社務所〉の人たちもこの現世の権力争いには加担しない方針らしく、われ関せずを貫いていた。
この辺、やはりただの人とは違う殿上人のようである。
ピピピ……
スマホの電子音がした。
もう夕方の五時だ。
昼前にこの山手線に乗ったから、一時間に一週したとしてかれこれ六週はしている計算になる。
それだけの時間を無為に遣ってしまった。
ただ、それが無駄だったかというとそうでもない。
多分、家で悶々と何かを考えているよりは有意義だったに違いない。
家で考え事をしていたら、家族―――特に妹だ―――が邪魔をしにくるかもしれないし、そこから連絡を受けて御子内さんたちがやってくるかもしれない。
場合によっては霧隠なんかも心配してくるおそれがある。
タヌキたちが忙しくてそれどころでないのはある意味では助かったかもしれない。
それだけ僕は考えることが多かったのだ。
(……とはいえ、もうそろそろ帰らないと)
家に帰るのが億劫な訳ではないけど。
「ゴホッ」
最近、よく咳をするようになった。
風邪ではなくて、おそらく僕の潜在的なストレスが咳となって発散されているのだろうと指摘された。
きっと当たっている。
特にある事柄を思い浮かべるとこのストレス咳がでるのだから。
それは―――
(〈社務所〉の退魔巫女たちのこと)
を考えると、僕はその度に強く咳込んで、苦しくて吐きたくなるときもある。
かつてはこんなことはなかった。
ただ、数週間前に僕を拉致してとある光景を見せつけた褐色の肌の巫女につきつけられた問題が、僕に必要以上のストレスを与えているのだった。
しかも誰にも相談はできない。
話を振れるとすれば、元凶である褐色の巫女―――神撫音ララだけだが、逆にいえば一番相談できない相手である。
ある意味では僕の敵なのだから。
「―――まあ、いつまでも乗っていられないか」
僕は新宿駅で降りた。
実家の最寄りの駅にいくための私鉄に乗り換えるためだ。
駅前からはまだ拡声器を使った演説の声が聞こえる。
明日が選挙当日だから追い込みに入った候補者が必死に活動を続けているのだ。
緑色の服を着た、今のところ最も当選の可能性のある女性候補者だ。
日本の選挙のやり方については色々とダメなところもあるが、それでも選挙によって選ばれるという建前だけは維持しているのは大切だと思う。
どんなことがあっても、まだ人の力だけでやっていけることだからだ。
でも、実際は違う。
あなたたちの知らないところで、世界は崩壊へと踏み出していき、それを進めているのは人知の及ばない天地に等しいものたち―――つまりは神なのだ。
放っておけば、この国も、この世界も、もうすぐ潰えるだろう。
灰燼と化すか、文字通りに消滅するか、それとも津波に流されて跡形もなくなるか、とにかく人が気付いたときにはもう手遅れになっているはずである。
ただし、絶対に欠かすことのない条件付きではあるが。
それは御子内さんたちが負けること、であった。
人を虫けらと変わらぬ扱いをする邪悪で恐ろしい神たちを唯一撃退できる可能性を持った巫女たちが悉く全滅しない限り、まだ人の世に希望はある。
そして、あの闘神に等しい少女たちが一矢も報いずに敗北するはずがない。
ただし、確実に勝てるとは決して言えない。
相手は普段戦っている妖魅を遥かに超えたステージにいるものたちなのであるから。
彼女たちに確実なる勝利をもたらすことができれば―――
僕の悩みはほぼそれに尽きていた。
でも、それを指向することは神撫音ララの甘言に乗ることと同旨であり、やってはならないことに手を出すことと同意であった。
でも、そこにいくための覚悟を決めるにはまだ僕は子供だったというだけだった。
「○×党は現在、批判のための批判に終始し―――」
マイクを持った候補者が弁を振るっている。
意味も内容も興味はなかったが、少なくとも雑音となって僕の思考を乱してくれる程度には役に立った。
「私たちのなすべきことは―――」
スピーカーから流れる音が更に大きくなった。
同時にハウリングのような音が流れ始めたのに、僕以外の誰も顔をしかめない。
まるで何も起きていないかのように。
『末法の世を救済することにある。菩提心に目覚めよ、衆生たち!!』
突然、政治を語っていた人たちが宗教論を始めたような違和感に溢れた。
しかも女性からはっきりわかる男のダミ声に変わっていたし、籠められた迫力はさっきまでの候補者の比ではなかった。
そこにあったのは、常に人を相手に説法し、例え宗派が違っても無理やりにでも宗旨替えさせることを目的とした宗教家のものだった。
ちょっと前に一度だけ聞いたことがある。
こういう物言いをする傲慢な主義者を。
(〈八倵衆〉の一遍僧人!?)
新宿駅西口のロータリーに止まった選挙カーの上には、数人の政治家や関係者が乗っていたが、その中にはある僧侶はいなかった。
あくまでも普通の人間たちばかりだ。
奥多摩で御子内さんと死闘を繰り広げ、彼女の〈闘戦勝仏〉によって地を這うことになったあの凶悪な坊主はどこにもいない。
だが、確かに聞こえた。
僕の耳には。
他人には聞こえなかったとしても。
『衆生よ、立ち上がれ!! 念仏を唱えよ!! この末法の世のためでなく、仏の御心を正しく信仰するのだ!! 拙僧の辻説法を心に留めるのだ!!』
間違いなく聞こえる。
それなのに選挙カーの人たちも観衆もまったく変化がない。
おかしいとさえ思っていないのだ。
つまり、これが聞こえているのは僕だけ。
いや、内容からすると、これは人の心に信仰という消えないものを植え付けようという、呼びかけである。
例え、聞こえなくても、心に底の無意識に響く可能性はある。
「皆さんの一票が明日の都政を変えるのです!!」
『―――お主らが
二つの主張が重なり合い、人々の心に忍び込む。
「東京都のためにお力をお貸しください!!」
『恥知らずの蛮都を血で染め上げて世界を救うのだ!!』
これは間違いなく洗脳であった。
誰にも気づかれず、悟られることなく、この東京に災いをもたらすためだけに吐かれた呪いの言葉が政治家の表の言葉を借りて人々に沁みわたっているのだ。
そして、その絡繰りについてわかっているのはこの場では僕一人なのだった。
「―――御子内さんたちに言わないと……」
こんな真似をしでかしている連中に心当たりのある僕は身を翻して誰にもスマホでの通話の内容を聴きとられない場所に行こうとした。
どこにあの声の主の仲間が潜んでいるとも限らないからだ。
だけど―――
「どこにいく?」
腕を背後から掴まれた。
それだけで痛い。
相当の握力の持ち主であった。
振り向くと、天蓋笠を被った虚無僧が立っていた。
古ぼけた墨添えの僧形はどうみてもコスプレではなく、しかも手には尺八を持ち、大掛絡を横に掛けるという完全に時代を無視した格好をしている。
「お主、あの〈
聞こえてきたのはしわがれた年寄りの声だった。
しかし、明確な強意志を感じた。
僕ははっきりと確信する。
この虚無僧は間違いなく、僕の―――御子内さんたちの敵だと。
仏凶徒の〈八倵衆〉である、と。
妖魅を倒すためならどんなことでもする血に飢えたような冷酷な彼らが、この日本の首都・東京で何かを画策しているのだということも。
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