第400話「死にまとわりつくもの」
三階建ての建物の屋上にまるで巣食うかのように蹲っているのは、軽自動車程度ならばその鋭い爪で持ち上げられそうなほどに巨大な鳥の怪物であった。
怖いもの知らずといってもいい皐月までが、緊張のあまり唾が呑み込めなくなる状態になるぐらいに悪夢めいた光景だった。
「ちょっと待って…… 特撮怪獣映画じゃないんだよ……」
皐月の減らず口さえ、いつものキレがない。
それほどに圧倒的な、常識を逸した忌まわしいほどの脅威があった。
人間のちっぽけな力では決して抗えないような恐怖。
恐怖のあまり神経が麻痺して、身動き一つとることができなくなる、邪悪なイメージが脳内を占拠していくほどの狂乱を産む怪物。
人外の殺人鬼たちに狙われ続けたにも関わらわず懸命に自我を失うことがなかったヴァネッサ・レベッカが、失禁しかねないほどに震えていた。
かつて読みふけった戯曲の台詞が自然に思い浮かんだ。
『―――憶えておくがいい。目に見える形をもった災い、それを―――悪魔というのだ』
魔に憑りつかれた清廉なる博士が鬱鬱と呟いた言葉だった。
「―――マイゴッド……」
神に祈った。
この国に訪れて以来、初めての神への祈願だった。
「あんなの自衛隊でもなければ倒せっこないでしょ。完璧に怪物じゃん! いくらなんでも〈社務所〉の媛巫女がやる相手じゃないっしょ!!」
皐月はプリウスαの助手席に飛び乗った。
「ネシー、逃げよう! あんなのと戦ってらんない!! えっと御所守のばーちゃんとかあの辺の化け物でないと無理無理!!」
完全に逃走モードに入った皐月。
彼女が得意とする刹彌流柔は完全に対人の武術であり、トラックよりもサイズがある怪物相手のものではない。
敵の放つ殺意を掴み投げることができるという理性を超越したような技であったとしても、あれだけの巨体を投げることなど不可能だ。
鳥は空を飛ぶために脳が小さく、骨も空洞になっているほど軽量化された生き物であるが、それでもあのサイズでは軽く二百キロは越えているだろう。
皐月が狼狽えるのも当然と言えば当然である。
少なくとも彼女の脳裏には、あの〈以津真天〉を投げ飛ばすビジョンは浮かばない。
完全にここは退却して、もっと怪物向けの軍勢―――〈社務所〉の中でも普段は外に出てこない超人たちを集めるべきだと判断したのだ。
このあたり、ただの武辺ものでない戦士として専門的に育てられた皐月の異常性がある。
ある意味では鍛え抜かれた軍人と同格と言っていい〈社務所〉の退魔巫女の一人だった。
勝てないとみたら、脱兎のごとく逃走して、振り返ることもしないで安全圏まで走り抜く。
逃げ出すことに頓着がない。
後方から敵に嘲けられたとしても恥とは思わない。
あの巨大な〈以津真天〉には決して敵わないと思えば、あとは逃げの一手。もし、逆襲があるとしてもそれは後日のことだ。
大事なのは命を拾うことだった。
リベンジはいつか狙えばいい。
だから、相棒のヴァネッサ・レベッカにもその意を伝えた。
「逃げるよ、スペースランナウェイ、イデオンだ!!」
この期に及んでくだらないことを言い放ちながらも、車の外に立ち尽くすヴァネッサ・レベッカを促す。
だが、FBI捜査官の少女は動かない。
恐怖のあまり硬直してしまっているのか、と外に出てから社内に押し込めようとしたとき、
不審に思ってその先を見ると、〈以津真天〉が止まっている「憩いの村」の建物目掛けて走る一台の軽トラがあった。
まっすぐに向かっているように見えたが、それは「憩いの村」の前がT字路になっているからだろう。
T字路を左に行けば、国道に出る。
だからか、軽トラは〈以津真天〉に突進するかのようにアクセルを踏み続ける。
「危ない、逃がさないと!」
「―――大丈夫よ。あのトラックは」
「ん? どうして? 下手に接近すれば〈以津真天〉に襲われるぞ、きっと!」
無理をしてでもあの軽トラを止めなければ。
しかし、距離と速度からしてもあのままでは―――
皐月は唇をかみしめる。
みすみす関係のない人間を危険に曝すわけにはいかない。
一方のヴァネッサ・レベッカはじっと軽トラを見つめていた。
気が遠くなるような時間―――実際にはほんの数十秒―――がすぎ、ヴァネッサ・レベッカの言う通りにT字路を左折した軽トラは、何事もなかったかのように国道目掛けて進んでいく。
ブレーキをかけることもなければ、アクセルを踏むこともない。
ごく普通の運転をするだけだった。
まるで、〈以津真天〉が存在していないかのように。
「え、どういうこと?」
皐月の驚きはもっともなものだろう。
あれだけ巨大な怪鳥が視えないはずがない。
それなのに軽トラの運転手はまったく意に介していないのだ。
「視えていない?」
「でしょう」
「退魔巫女のうちならともかくネシーにまで視えてるのに、あの軽トラの運ちゃんは気がついていないってこと? マジで?」
理解できないことだった。
妖怪変化が普通の人間の目に映らないのは常識だったし、妖怪が自ら姿を見せようとした場合や幾つかの例外を除けば、あれほど巨大な怪物が人の目に留まらないはずがない。
皐月の先入観は、軽トラの運転手にとっても視えているだろうと勝手に解釈していた。
それなのに軽トラの挙動を見る限り、〈以津真天〉を怖れている様子はなかった。
そして、ネシーの言う通りに襲われることもなかった。
「どういうことなんだい? うちにはよくわからないのだけど」
「……わたし、あの手のものを見たことがあるわ」
「あの手のもの?」
ヴァネッサ・レベッカは小さく頷いた。
「あの妖怪の由来を聞かせてちょうだい。きっとわたしの知っているものと根源が似ていると思うわ」
彼女は犯罪捜査の専門家であり、妖怪についてはほとんど知らないはずなのに、〈以津真天〉について何らかの秘密を見抜いているような様子だった。
「……〈以津真天〉は今から七百年ぐらい前の建武元年に、京の都に疫病が流行してたくさんの人間が死んでいるとき、毎晩のように京都御所の
「やっぱり大量の死が溢れたところにでる妖怪なのね」
ヴァネッサ・レベッカは一度視線を降ろし、
「あれはきっと〈
「〈死神〉って」
「散々、大量殺人鬼に狙われたスターリング家の女にとっては旧知の相手ということ」
死が人にとって最も親しい友であるように、行く先々で殺人鬼に出会うヴァネッサ・レベッカにとっては〈死神〉は幼馴染のようなものに違いなかった……
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