ー第12試合 炎熱合宿ー
第79話「潮に流され海より孵る」
まだ陽の昇らない薄暗い引き潮の沖合を、野谷英夫は船で漕ぎ進めていた。
借りている船には様々な機材が乗せられているので、乗員が一名だというのにかなり手狭だ。
とはいえ、やることも多く、いちいち文句を言っていられる状況ではなかった。
野谷にとって、この時間帯は漁師にも劣らぬほど忙しいのである。
「やっぱり、こっちまで流れ着いているのか……」
手の中のガラス器具に汲んだ海水に試薬を垂らして反応をみると、やはり予想通りの結果がうまれていた。
いや、予想よりもかなり濃い。
潮の流れが停滞しているとはいえ、これほどまでだとそのうちに視認できるようになるかもしれない。
別の機材をつかって、今度は海底の泥のサンプルも採ることにした。
沖合とはいえ、深度はさほどない。
東京湾などのようにいきなり海溝があったりする土地柄でもないからだ。
陽が昇るまでのわずかな時間でやることが多量にあるからか、この時点で野谷はあることに気がつくこともなかった。
あまりにも静まり帰っているということに。
夜の海上である以上、海鳥は飛ばないし、魚も視認できるはずもない。
ただ、海が生きているかほとんど死んでいるのか、その区別は意外とできるものである。
この日に限って、異常なまでに海は静かすぎた。
毎日海に出て、そこを生活の場としている漁師たちならば異変に気がついたであろうが、学者である野谷はたまに出る程度なのでわからなかったのだ。
ゆえに、自分が借りている小さな船舶に近寄りつつある存在を察知することができないままで終わった。
ペンライトを口で噛みしめて、手元のノートにメモをしていた彼はなにやら妙な寒気に襲われた。
「上着、もう一枚必要だったか……」
空いている左手で肩をさする。
「んっ?」
ふと、何かがおかしいと感じた。
何がおかしいのかはわからないが、とにかく背中が変だ。
まるで、誰かに見られているかのような居心地の悪さ……
思わず、野谷は振り返ってしまった。
こんな誰もいない海上で人の視線を感じることなどあり得ないのに。
だが、いた。
じっと彼を見下ろすものたちがいた。
船上の彼をわずかに高い位置から見るものたちが。
しかも、そいつらは、人のように口を利いた。
『……漁師だ、漁師だ、漁師だ』
『違う。人だ、人だ、人だ』
『こんな海に、こんな海に、こんな海に』
『いるな、いるな、いるな……』
上下に並んだ二つの顔が交互に喋った。
一度発声しただけでは意味が通じないのか、理解できないのか、何度も同じ内容を繰り返す。
地獄の底から競りあがってくるような重低音の響きで。
耳にこびりついて離れなくなるような不気味さであった。
「な、なんだ!?」
つい叫んでしまったが、まだ東方から昇る太陽は欠片しか見えておらず、薄暗すぎてそいつらの全容を把握することはできなかった。
ただ言えるのは、船ではなく海の上からそいつらは彼を見ているということだけである。
もう一隻船があるわけはない。
どうやってその位置にいるのだろうか。
『我らに気がついた』
『我らに気がついた』
『我らに気がついた』
『我らに気がついた』
そいつらは鸚鵡返しに繰り返す。
『どうする?』
『どうする?』
『気に入らないな』
『確かに気に入らないな』
『こんな海にしておいて』
『こんな海にしておいて』
『我らの怒りを買っておいて』
『我らの怒りを買っておいて』
黒い影が近づいてくる。
それが「腕」であると野谷が気づいた時、彼の頭は上からがっしりと掴まれていた。
触れられただけで痛みを覚えるようなざらついた掌であった。
ギリリと締め付けられ、あまりの痛さに絶叫する。
まるで万力にでも挟まれているかのようだ。
意識が遠くなりそうだった。
「ぎぃやああああ!! 痛い、痛い、痛い、いたああああい!」
助けを求めるには十分な悲鳴を上げたが、あいにくと早朝の海上には誰かが通りすがるはずもない。
彼の悲鳴は静寂の中に霧散していくだけであった。
『いい叫び声だ』
『いい叫び声だ』
そいつらは爆笑していた。
痛みに苦しむ野谷の姿がおかしくて仕方がないらしい。
くいと身体が浮いた。
頭ごと持ち上げられているのだと野谷が気がついた時に、足の裏が甲板から離れていた。
「やめてくれええ!!」
今度は自重で首が伸ばされる痛みで死にそうになった。
薄れかけた意識が呼び戻されるほどの苦痛が襲う。
どんなに暴れても、掴んでいる腕を殴りつけても、決して放してくれない。
それどころか、野谷の精神は限界に達しようとしていた。
吊り上げられている苦しみに呼吸さえ止まりそうだった。
『うるさい』
『うるさい』
野谷はさらに高く吊り上げられた。
甲板からニメートル以上は離されて、そして、投げ捨てられた。
ゴミのように。
何十メートルもの距離を飛び、水面を平らな石が切るかのごとく、海面を二度撥ねた。
投げられた瞬間、首の脛骨が折れ、叩き付けられて背骨まで砕けた。
海に沈んでいくまでのわずかな時間、野谷は自分がどうしてこんな目にあわなければならないのか、と世界を呪った。
だが、彼は知らなかった。
彼を殺したそいつらも同様に人間を呪っていたということを。
彼を殺した理由が、ただの八つ当たりでしかなかったということも。
◇◆◇
「……これなんてどうだい。ボクの可愛らしさがさらに引き立つと思うんだがね」
「うん、そうだね。でも、もうちょっと布地があった方がコストパフォーマンスが高いような気がするよ」
「そんなものか?」
「そういうもんだよ」
幾つもの水着をハンガーごと比べながら、御子内さんがうんうんと唸っている。
周囲を見渡すと、似たような悩みを抱えている女の子たちがたくさんいて、彼女自身は浮いていない。
付き添っている僕のいたたまれなさはハンパないけどね。
「お客様、試着などなされますか?」
「したいんだけどね」
「では、この袋の中に試着したい品を入れてください。今、試着室が埋まっておりますが、この番号をお呼びしますので少々お待ちしていただけますか?」
「いいよ。どうせ、時間は十分にかける予定だしね」
……僕の個人的な時間はガリガリと削られているんだけどさ。
この明るい、いかにも夏をイメージした水着売り場で僕は途方に暮れていた。
妖怪退治につきあうのはいい。
リングを設営するのも慣れたものだ。
ただ、女の子のお買い物につきあうのは、ツラい。つらたん……。
……そもそも、なぜ、僕が御子内さんの水着の購入に付き合うことになったかというと、
「来週、茨城まで出掛けるからね」
と、突然、宣言されたことに遡る。
「茨城県? 御子内さんの担当は東京と北関東の一部じゃないの? 確か、茨城ってレイさんの縄張りじゃあ……」
「そうだよ。でも、そのレイからの頼みなんだ。手伝って欲しいんだとさ」
「へえ」
レイというのは、
御子内さんの親友の一人で、〈神腕〉の二つ名を持つ厳しい女教師タイプの美人である。
巫女レスラー的強さでいうと御子内さんとほぼ互角。
今のところ、僕が彼女のこっぴどくやられたシーンを見たのは、後にも先にもレイさんを相手にしたときだけだ。
そのレイさんからのヘルプがきたのか。
「話を聞く限りじゃ、ちょっとレイ一人では辛そうなんだ。で、費用は社務所で出すから、ボクとキミを呼んだということらしい」
「なんで僕も?」
「だって、キミはボクの助手じゃないか。ボクが遠征するというのならば付き合って当然だ」
「……あっ、僕ってそういう立ち位置なんだ」
わかってはいたけれど、御子内さんは強引なのでどうせ逆らっても無駄だし。
「それにレイなら、どこぞのマスク女と違ってよけいなちょっかいを掛けてくることもないし安心だ」
「ああ、変なイジリはしないってことだね。レイさん真面目だし」
「―――そういうことじゃあない」
「?」
ただ、問題なのは、僕の目の前に並べられたパンフレットの山だった。
どうみても今年の夏の流行の水着のものにしかみえない。
なんのためにこんなものがと思っていたら、
「今年こそはきちんと新作を買おうと決めているんだ。これなんか、いいらしいぞ」
とても楽しそうに付箋まで貼ってあるパンフレットを眺める御子内さん。
話が繋がっていない気がする。
女の子特有の二言三言で話題がぶっ飛ぶ会話という訳ではなさそうなので、おそらく彼女の中で何段階か端折られただけなのだろう。
「どうして水着を買うの?」
「ん……ああ……?」
最初、きょとんとしていたが、どうやら先走り過ぎたらしいことに気がついたらしく、ごほんと咳払いをする。
「どうも現場が大洗の近くらしくてね。ついでだから、久しぶりに海水浴にでも洒落込もうかと思っていたところなんだよ。ボクだって、年頃のJKなんだし、海と聞いたらはしゃがずにはいられないのさ」
大洗といったら、アンコウで有名だけど海水浴場としても知られていたっけ。
東日本大震災のときからなんとか復興に近づいているという話だから、遊びに行くのは良さそうだ。
ただ……
「一つ聞くけど、海の妖怪が相手なの?」
「レイの話が確かならそういうことになるだろうね。〈護摩台〉も砂浜とかに設置することになりそうだから、けっこう体力を使うから覚悟しておきなよ」
「それはいいんだけど」
僕も随分とガテン系になったものだ。
肉体労働があると聞いてもまったく動揺もしなくなった。
もっとも、問題はそこではないのだけれど……。
まあ、いいか。
いくら世事に疎い御子内さんでもあれだけニュースになった出来事を知らないはずはないし、それをコミで海水浴とか言っているに違いない。
僕の処世術の基本は、余計なことを言わない、である。
―――そうして、僕は御子内さんに連れられて水着売り場に来ることになったのであるが……
正直、逃げたい。
「80番のお客様~」
「ボクの番だね」
意気揚々と水着の試着に行く彼女を見送りながら、もしかして感想とか評価とか述べるべきところなのかと暗澹たる気分になった。
妹を相手にするのならどんな辛辣なことでもいえるが、御子内さん相手だと気を遣わないとコブラツイストか卍固めが待っているからなあ。
数分先の未来の自分に降りかかりそうな災難を想像して、ため息が出る。
しょうがない、なるようにしかならないし。
気を紛らわすために、音子さんにでもライン送ろうかな。
〔京一〕「来週、レイさんの妖怪退治につきあうことになりました。御子内さんともども。ついでに海水浴に行くそうで、お洒落な水着を買いに来ています。なう」
……それだけ送ったら、すぐに僕の名前が呼ばれた。
「京一、ちょっと来てくれないか! ボクとしてはこういう色の方が映えると考えるんだけど、キミはどう思う!?」
「御子内さん、ちょっと隠して! スタイルいいのはわかっているからもっと恥じらって!」
妙に元気な彼女を試着室に押しやりながら、僕は大変な海水浴になるだろうなと不安でいっぱいになったのである。
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