第641話「〈ハイパーボリア〉の決意」
「あー、やっぱりちょっと狭いな。これじゃあ、いざというときには使えないじゃないか。……いや、だから見逃されていたのかも」
そう言って、壁に空いた四角い穴からのっそりと降りてきた少年は独り言をつぶやいた。
この場にいた六人の誰も知らない顔をしていた。
東京都の行政権の及ぶ施設だけあって、未成年の作業員は一人もおらず、〈ハイパーボリア〉では最年少でも高専出の二十歳前後であった。
この少年は日焼けして逞しくはあるが、線も細く、ひいき目に見ても高校生ぐらいだ。
うちの人間ではない。
見覚えはまったくなかった。
「よいしょ」
あとから穴の奥に置いておいた背負いカバンを取り出す。
銃器らしいものは所持していないが、まとっている格好はどうみても軍隊のための戦闘服だ。
あまり似合ってはいなかったが、それは貫禄の分野での問題だろう。
下ろしたての新品でないことだけはわかる。
値段のタグがついていないというだけでなく、見た目の幼さを裏切るぐらいにしっくりと似合っていたからである。
「……おまえ、なんだ? どうやってここにきたんだ?」
「そこの穴からですよ。換気ダクトは最初から使えなくなると思って、なんだか設計段階で色々と仕掛けていた人がいるみたいで、図面上でさりげなく抜け道として描かれていました。ちなみに、ジョン・マクレーンがいないように一番最初に換気ダクトは全部穴だらけにされていて移動手段としては不適切にされていました。どうもテロリスト側には映画ファンがいるみたいです」
少年はたてこもっている燃料室にもある換気ダクトを指さした。
誰かが言っていた通り、あれで脱出するということ不可能事らしいことがわかっただけだ。
だが、六人の生き残りからすると突然やってきた少年のうさん臭さはただ事ではない。
しかも、その顔にはあまり悲壮感がない。
自分たちが知っているだけでも戦争に匹敵するだけのとんでもない状況になっていることが明らかなのに、少年には自分の立場がわかっていないのか。
しかし、どん底まで愚かなのでもイカれている訳でもないことは顔を見ればわかる。
理性と知性、そして希望の輝きを抱いた不屈の意志を持った男の顔だった。
「あんた、誰なんだ? もしかして、自衛隊か?」
「助けが来たのか? おい、そうなんだろ? そうだと言ってくれよ!!」
「残念ですが違います。僕はあなた方を助けに来た訳ではありません。ここによったのはあくまでついでです」
「ついで……だと」
少年は床に座ると、カバンを開いて中のものを整理し始めた。
伝え聞いていたものと差異があったので、装備を再確認して、いらないものを捨てることにしたのだ。
さすがにもう二時間ほど〈ハイパーボリア〉の内部を動いていて、疲労を感じていたこともある。
彼にはどんな者にも負けない強運があったが、それを引きだすためにはすべての集中力と耐久力を極限まで出さなければならないという制限があるからだ。
普通の人間ならば五分と生存できない地獄の戦場を知恵と勇気だけで切り抜けてきたおかげで、すでに疲労困憊していたのである。
正直、温かいベッドにでも跳びこんで休みたい気分だった。
できることなら。
むしろふかふかのベッドが悪夢にしか思えないほどの苦境ではあったのだが。
「……なんだ、それは?」
少年がカバンからだしたのは、ややこの状況に不釣り合いともいえるものばかりだった。
身体にぴったりの戦闘服とブーツ、そして手袋に帽子を被っていながら、床に並べられたのは木でできた短剣や輪ゴムで縛られたお札、輪っかになったワイヤー、分厚い真っ赤な書籍、そして銀色の巨大な〈鍵〉であった。
武器らしいものは、腰と胸に吊るさっている手榴弾みたいなものしかない。
とてもではないが、特殊戦闘部隊のものではない。
少なくともフィクションの世界における場合では。
「銃はないのかよ!?」
「訓練はしたんですが、おまえには銃を扱う才能はなさそうだと取り上げられました。ゲームでは自信あるんですけどね、プロからすると生兵法らしいです」
「……その口ぶりからすると特殊部隊員であることは間違いないようだな」
「まあ、バイトなんですけど」
男たちは絶句した。
少年の言っていることがよくわからないのだ。
まるで狐につままれたような気分になってしまった。
最初は怪しいと思い、次に少しだけ期待し、今度は途方に暮れてしまった。
自分たちが平静を失いかけているのに、この少年は異常に落ち着いていて、どうみてもまともな子供ではないのに、その所作にも目にも口の利き方にも希望が感じられるのだ。
あまりの訳の分からなさに、マサも関田医師もどう反応すればいいかわからなくなってしまった。
ソータやユーヘイはいうまでもなく。
少年はカバンの中身―――装備を確認するとまた仕舞い始める。
丁寧に、いつでも自在に取り出せるように。
最後に木の短剣を残したのは、腰のナイフホルダーにしまうためだった。
そこに納まっていたはずのナイフはもうなくなっていたので、代用するためだ。
「―――桃の木剣かい?」
少年に話しかけたのは、気だるげに座っていた看護師の鉢本いすゞだった。
これが桃の木をすりあげて作ったものだということを見抜かれてさすがに驚く。
何度も何度も使ってきて汚れたうえ、折れてしまったのに愛着があって短剣にまですりあげて使っているものだからだ。
材質などわかるはずがない。
「ええ。横浜の友達にもらったものです。よくわかりましたね」
〈殭尸〉退治のときに知り合った中華街の顔役・元華からもらったものだ。
退魔の曰くのあるものでも、魔法のかかったドラスレでもなかったが、少年の命を何度も救ってくれた降魔の利剣そのもの。
だから、ここにまで持ってきてしまった。
〈ハイパーボリア〉に巣食う化け物どもにはまさに蟷螂の斧にしかすぎないが、大切なのは信頼を預けられる存在だ。
その意味でこの木剣は彼にとっての〈聖剣〉であった。
だが、どうしてわかったのだろう。
「あんたかい、禰宜でもないただのバイトってのは? ……何度も
「禰宜……もしかして、あなたは?」
いすゞは胸ポケットから二つに折られた和紙のようなものを取り出し、それを少年に見せた。
菊と桐をアレンジした紋章だった。
家系に家紋があるように、神にも御紋があり、それは神紋といわれている。
神紋は神ごとの御紋となるので、神社において一社で複数の神を
その場合は主祭神の御紋を代表して使用し、それを社紋と呼びあらわす。
いすゞが見せたのは、その社紋であった。
少年にも見覚えがあった。
それは明治神宮をほぼ本拠地とするとある退魔組織―――〈社務所〉の紋章でもあるからだ。
つまり、これを出したということは―――
「〈社務所〉の元媛巫女で鉢本いすゞっていう。あんたの知っている名前でいうと……不知火こぶしの同期さ」
「こぶしさんの―――っていうことは?」
「君みたいな察しのいい子は好きだよ。いちいち考えなくてすむ」
「……元、でいいんですね」
「ああ、そういうことだよ。あたしは五年前に致命的なダメージを喰らってしまってね。神通力が欠片もないんだ。〈気〉もまともに練れないガラクタで、せめてこういう役目ぐらいはもらえないとただのゴクツブシさ」
いすゞは自嘲気味に言った。
「インスマウス面もダニッチの末裔も、こっちが反応するよりも早く動き出してしまったせいであれよあれよという間にこの様だ。Bブロックの作業員たちもほとんど救えなかった。出来の悪いゴミクズだと納得したよ。捨てゴマにもならない」
「……でも、おかげであの穴が確保できましたよ。あなたのおかげですよね」
少年が眼をやった先には、ついさっき彼が入ってきた穴がぽっかりと空いていた。
あそこをいざという時に使えるように、誰にも秘密で確保していたのはいすゞの仕事であった。
他にも幾つか準備をしていたが、まさか邪神復活の星辰が揃う前に怪物どもが暴れ出すとは想定もしていなかったのだ。
おかげでスパイとして侵入していたいすゞは、ほとんど何もできずに燃料室に閉じこもる羽目になった。
脱出さえも諦めかけていたときにこの少年―――升麻京一がやってきたのだ。
最初は躊躇ったが、身分を明かすほかはないと決めた。
身分を明かして積極的に協力するしか生き残るすべはないと悟っていたのだ。
他の五人と違って、いすゞは京一がここに来るだけにどれだけの困難があったのか手にとるようにわかる。
まともな人間では誰であったとしても不可能な地獄の一丁目なのだ。
それを生きてやってきた少年を信じずにどうするというのか。
「……あんたのおかげで脱出の目途が建った。協力してくれないか。もう遅すぎるが、せめてここにいる五人ぐらいは助けたい」
「いいですよ」
「即答か。あんた、凄い子だ」
「あなたの後輩たちはもっと凄い女の子ばかりですよ。誇りに思ってください」
「そっか」
マサを初めとして作業員の男たちは状況が呑み込めなかった。
ここから逃げるのか?
逃げていいのか?
助けが来るまで待つんじゃないのか?
様々な思惑が巡るが、まともに口に出すものはいなかった。
状況が変わりすぎていて何が何やらわからなくなってしまっているのだ。
本当に、いすゞとこの少年に従って逃げるべきか。
だいたい、ただの看護師だと思っていたいすゞが何かおかしな秘密を抱えていたらしいことが不信に拍車をかける
俺たちはどうすればいいのだ。
誰か指針を決定してくれ!
最年長の関田医師はすがるような男たちの視線を顔を振って否定した。
初老の医師にそんな決断力はない。
その時、
「……おいガキ。こっから逃げる算段はついているのか」
ほとんど数時間近く身じろぎ一つしていなかった男が不意に口を開いた。
「トシさん……」
鈴木寿郎はさっきまで死んでいた目を京一に向けた。
今は違う。
「なんとか。でも、全員無事に逃げられるかは未定です。それでよければ」
「構いやしねえ。どのみちここに座していても死ぬのは決まりだ。なにもせずにくたばるぐらいなら走って前のめりに死んだ方がいい。おい、看護師。あんたもいいな」
「いいよ。この子が何かしていてくれたんだろうしね。でも、トシさん。さっきまで死んでいたのにどういう風の吹きまわしなのさ」
「どうでもいいことだ。―――厭なことから目を背けて部屋の布団を被って寝ていりゃあいいのに、ひたすら眼をこすりながら寒いところに行く馬鹿をみちまっただけさ」
トシはゆっくりと立ちあがり、京一の前に立つ。
足元を睨み、
「おめえ、さっさと手当てを受けろ。〈ハイパーボリア〉の夜は寒くなるからな。血なんか流していたら止まらなくなるぞ」
京一は自分の腰の部分の戦闘服の生地が破れ、血が滴っている部分を慌てて隠した。
さっきまではできていたが、いすゞとの会話に集中しすぎて忘れてしまっていたのだ。
ようやっとたどり着いた救い主が弱っていたら、要救助者が不安になるだろうと思っていた傷であり、さっきの空飛ぶサメによってやられたものだった。
深手ではないとはいえ、余計な傷を喰らったと後悔している。
それをトシに指摘されて、少しバツが悪くなり顔を伏せた。
「おめえらも、準備しろ。事情はさっぱりだが、俺たちを命がけで助けようとしているガキの治療が終わったら逃げ出すゾ。俺らの〈ハイパーボリア〉はもうすぐ沈むかもしれねえんだからよ」
海上の採掘施設には突然の死がつきものであり、トシだけでなく、マサも、ソータもユーヘイも、初老の関田医師すらも覚悟がないわけではなかった。
何もない海の上では死と隣り合わせでなければやっていけないのだ。
だから、死にたくないと思ったら覚悟を決めるのは
「わかった、逃げよう」
「そうっすね。確かに嵐がまずいことになっている。逃げないとくたばっちまう」
男たちは頷いた。
協力して逃げるしかもう道はない。
その様子を見て、少しだけ京一は安心して微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます