第579話「わしの名は……」
悪意というものがどれだけ人間にとって害になるものか、鉄心は骨の髄まで実感していた。
殺意や闘志は人を狂わせるが、逆に奮わせることもある。
だが、悪意にはなにもない。
人を陥れてでも利益を掴もうとするものもいるが、行動の是非はともかく生臭い動機はまだ人間らしい。
鬱屈したストレスを解消しようと弱いものをイジメる行為も、鶏などにも見掛けられるように群れをつくる動物としてはありえる衝動だ。
しかし、なんの意思も理想もなく他人を不幸にし、堕落させることだけを目的とする悪意は底が見えないほどに昏い闇のように得体が知れない。
鉄心の眼前に立つ邪神の存在目的はまさにそれだった。
ぬめりとして、心をざらつかせるだけの敵。
ただ、それに憑りつかれたら真っ逆さまに転げ落ちていきそうな虚無。
ヒトであるのならば誰もが秘めている悪意、天使と悪魔が鬩ぎあう心の中の善良な部分を根こそぎ刈り取ってしまうような既知にして未知。
それが邪神〈イゴールナク〉。
〈嘲笑する裸神〉であった。
「……踏ん張った足の裏から駄目になるようだわ」
闘志に満ち満ちた鉄心は、自分がすべてを投げ捨ててどこかへ逃げ出したくなる気分に支配されそうだと感じていた。
誰かのために戦う意志は消え、保身と臆病だけがむくむくと顔を上げる。
女の中の漢、豈馬鉄心ですら絶対にできることのできない弱さが急速に膨らんでいく。
あと数秒対峙していたらもう終わりだ。
悲鳴を上げて逃げ出し、母の膝の上に帰りたくなるだろう。
そんな予感がした。
「なるほどのお。ニンゲン種のもつ善なる部分を根こそぎ食らい尽くし、これまで綿々と築き上げてきた倫理も道徳も無に帰されてしまいそうだ。これは恐ろしい。うぬはただ立っているだけでわしを退けることができそうだな」
そのくせ、平然と〈イゴールナク〉に話しかける鉄心。
これが他の巫女レスラーであったのならば先手必勝とばかりに出合い頭に噛みつくところだが、彼女はじっと敵を観察し続けた。
時間をかければかけるほど心の闇が拡大し、邪神と戦うことすら困難になるとわかっていながら。
なぜなら、鉄心は弱いからである。
幼馴染や親友たちとは比べものにならないほどに弱い。
180センチ、90キロの恵まれた肉体も、御所守家につらなる血筋の良さも、なんの慰めにもならないぐらいに彼女は弱い。
修行場での三年間でいやというほど叩き込まれていた。
だからといって、弱さを言い訳にはできない。
彼女が小さなころから見つめてきた世界は、弱さを理由にして逃げ出してどうにかなるほど甘いものではないからだ。
〈イゴールナク〉のものほどではなくても悪意が人を食い物にし、小狡い妖魅が誰かを傷つけようと蠢く夜の世界、淀んだ澱のすぐ傍に彼女たちはいなければならないのだから。
眼を塞げばいつでも逃げられるなんてことはない。
視ることのできる者の辿る人生は決まっている。
戦うしかないのだ。
自らを堕落させる惰弱さ、と。
「わしは喧嘩には弱いが、心ぐらいは強くありたいと常々思おておった。まさか、このような絶海の孤島でそんな試練を受けられるとは―――人生とは満更でもないものだのお」
〈イゴールナク〉の異形が揺らいだ。
鉄心の放った言葉が嘘や虚勢ではないということを悟ったのだ。
人の精神に干渉できる能力があるからこそ、階段の下にいるちっぽけなはずの人間の少女の真意を理解してしまった。
彼女はただ思いの丈を語っている、と。
「これまで劣等感も惨めさも散々味わってきたわ。でかいだけ、力が強いだけ、取り柄と言えば可愛らしい顔だけのわしが、或子や神宮女、明王殿たちには絶対に敵わないとわかっていながらやってこられたのもすべて、わしの名前のおかげよ」
彼女は〈イゴールナク〉が登場して以来、はじめて階段に足を掛けた。
「わしの名は鉄心だ。―――
さらに一歩あがる。
「人の弱さにつけこむ邪神よ。うぬを野放しにするということは、善き世界を目指そうとする人間たちのこれまでの不断の努力を冒涜することに他ならぬ。他のものすべてがわしのように心が強いとは限らん以上、絶対にうぬはここで叩いておかねばならぬ妖魅だ。力及ばずともな」
手にした丸太は勇気の証し。
かつてこれで数えきれない悪魔たちを退けてきた。
だから、この大一番においても鉄心は丸太を構える。
「では、やろうか邪神よ。か弱き人間が常にうぬらにしてやられるとは思わない方がいい。特にワシを相手にしたときにはな」
丸太を使った直突きが〈イゴールナク〉の胴体に飛ぶ。
しかし、その先端が邪神の掌に受け止められる。
掌に浮かんだ大口の歯によって噛みつかれていた。
鉄心の渾身の力を込めた一撃を至極簡単に。
「……やるのお」
さすがの鉄心も一瞬だけ眼を見開いたが、すぐにいつも通りのもののふの顔になる。
「だが、わしのぶちかましで吹き飛ばなかった敵はおらんぞ」
丸太をたやすく手放すと、鉄心は両手で顔面を覆うと下から一気にぶちかました。
腕の下を掻い潜られて〈イゴールナク〉の首から上のない胴体に当たる。
床にひびが入るほどの踏み込みがただの突撃の威力を何倍にもあげた。
『!!!!』
首のない邪神に動揺が広がる。
人知を超えた邪神がたたらを踏んで後退する。
まずはニメートル、神に人が一矢を報いたのだ。
だが、ここではまだ止まらない。
鉄心は人類の代表として決して負けられない。
神を斃すのは或子たちの仕事だが、抗うだけなら誰でもできる。
しかし、抗い続けることには断固たる精神が必要で、豈馬鉄心はそれを有していたのであった。
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