第279話「夢幻のごとくなり」



 平日の通勤通学が混雑する池袋駅のホームの一つは異様な状況になっていた。

 先頭車両が停車して、最も改札口に近い地点が動かない人混みによって完全に渋滞してしまっているからだ。

 しかも、のろのろとでも列が動いているならまだしも、この一画だけは完全に足が止まってしまい、進む気配さえもない。

 何故かというと、妖怪〈ぬらりひょん〉の怪しく酷い踊りとてんちゃんの催眠マイク・パフォーマンスの相乗効果で人々が完全に魂が抜かれたような状態になっていたからだ。

 すでに面倒事なんて段階ではない。

 パニックになっていないのが不思議な状況なのだ。

 おそらくこの状況はすぐにネットで拡散される。

 てんちゃんが〈ぬらりひょん〉を倒すために与えられた時間はほとんどないはずだ。

 だから、彼女はすぐに動いた。

 地を這うような低い姿勢からの高速タックル。

 来年のオリンピックで四連覇が期待されている吉田沙保里よりもさらに低空を行く、ひざ下を狙うものだ。

 おそらく150センチ台の身長しかない〈ぬらりひょん〉を捕まえるためにはそれしかないのだろう。

〈ぬらりひょん〉も黙って突っ立っている訳ではなく、手にした扇子をくるりと動かして、てんちゃんの鼻先につきつけて制した。

 動きが見切られているのだ。

 さすがに古い妖怪らしい凄味がある。

 ただの変態痴漢野郎ではない。

 江戸の大店に居ついていたというだけあって動きが粋で洒落ものでもあるようだ。

 鼻を鳴らして、てんちゃんの手を掴んだ。

 接近戦ならばコマンドサンボ使いの彼女の方が上だ。

〈ぬらりひょん〉のそれは悪手のはず。

 だが、掴まれた手を振り払って自分の組手に持って行こうとしたてんちゃんの顔色がわずかに変わる。

 なぜなら、彼女がどんなに手を引いても〈ぬらりひょん〉のものが離れないからだ。

 まるで接着剤でもついているかのように。

 しかも、どんなに激しく肩を振り回しても取れない。

 傍目にはそれほど強く握っているようには見えない。

 むしろ、添えているだけだ。

 僕の尻と太ももを撫でていたときのように。

 もしや、あの掌には何か秘密があるのか。


「くそー、ぴったりとくっついていて気持ち悪いですよー」


 てんちゃんは派手に嫌がっているが、どうやっても離れてくれないということを理解したのか、ついには逆に仕掛けるようになった。

 さっきも指摘したが接近戦を挑む敵はコマンドサンボにとっては絶交の餌食だ。

〈ぬらりひょん〉の着物の襟もとを掴み、右手を腕と腋で挟み込むと一気に手元に引き寄せる。

 躊躇なく肘を破壊するつもりなのだ。

 彼女がサイコパスと呼ばれる所以だ。

 例え見た目が奇怪なだけの老人であろうと、妖怪と見たら、いや敵と認識したら一切の容赦をしないのがてんちゃんの恐ろしい持ち味だ。

 他の先輩達でさえ、ここまで危険ではない。

 てんちゃんは巫女レスラーではなく、巫女ハンターとでもいうべき存在なのである。

 だが、〈ぬらりひょん〉の腕はいつものポキという呆気ないけれど背筋が震える音を立てなかった。

〈ぬらりひょん〉は飄々とした顔つきで反対に捻じ曲げられた手を見て、逆に扇子でてんちゃんの鎖骨を打った。

 何気ない一撃なのに相当の激痛なのか、酷い顔になっていた。

 その一撃もあり得ない角度からのものであり、〈ぬらりひょん〉の肉体はまるで軟体動物のように歪んで動いたのだ。


「タコだな……」


 僕の隣にいて戦いを見守っていたロバートさんが呟く。


「蛸ですか?」

「ああ。ここに来る前に調べたところ、〈ぬらりひょん〉の正体は今一つわからないが、その中に江戸湾の改定に潜むタコが沖から上がってきたという説があった。〈ぬらりひょん〉の「ぬらり」は乗り物を降りることをいうとされているが、それよりももっと根本的に見た目から来ているのではないかという説だ」

「ぬるぬるしている……。海棲生物の特徴だ」

「そして、あの特徴的な頭の形」

「確かに『タコ』……」


 つまり、〈ぬらりひょん〉が陸に上がったタコだったとするのならば、さっきからてんちゃんを掴んで離さないこととあの軟体も説明できる。


「あれは手のひらに吸盤がついているからなのか!」

「そうだ。しかもあいつには骨がない。いかにてんと言えども、骨のない奴に関節技は極められない」

「しまった、てんちゃん!!」


 相性としてはもしかして最悪の敵なのかもしれない。

 コマンドサンボ使いのてんちゃんでは、タコの化身は倒せない。

 しかし……


「よく見ておけ、京一。例えタコが相手だろうとてんが負けることはないぞ」

「えっ」


 落ち着き払ったロバートさんの声。

 女子高生の姿だからなんともしれない威圧感がある。

 別に僕が同世代の女の子に対してすぐに気後れするということは関係なく。

 数か月前はてんちゃんに対してかなりの疑心をもっていたはずのロバートさんから、彼女に対する篤い信頼を感じた。

 僕が普段から御子内さんを信じているように、この人もてんちゃんを信じるようになったのだ。

 そして、その信頼にてんちゃんが応える。


「でええい!!」


 裂帛の気合いとともにブチッとあまり耳にしたくない音がした。

 べちゃっと床に落ちたのは、切断された手首だったが、次の瞬間にはタコに八本ある足の一つに変化した。

 戻ったというべきか。

〈ぬらりひょん〉の手首を奪ったのはてんちゃんのだった。

 骨がなくて捻れないのならば

 そんな単純な発想の元、彼女は自分の持つ少女どころか人間離れした握撃をもって〈ぬらりひょん〉の手首を千切ったのだ。

 タコの化身ゆえ、脆い身体構造をしていたからか、てんちゃんの無茶な力技が発揮されてしまったのだ。


『ギエエエエ!!』


 タコの化身らしく、〈ぬらりひょん〉は口から黒い墨のような涎を吐いた。

 それはシャワーとなって人々に降りかかる。

 黒い雨を浴びてもてんちゃんは怯むことなく、そのまま背後に回り込むと〈ぬらりひょん〉の首をとった。


「ふん!!」


 そのままチキンウイングフェィスロックに入る。

 骨を折れなくても、絞めて落としてしまえばいい。

 御子内さんなら、ブリッジしてスープレックスにもっていくところだが、相手がタコであることを考慮してか力づくで絞めることにしたのだろう。

 そして、時間にして五秒後。

 ガクっと首を落とした〈ぬらりひょん〉は動かなくなった。

〈護摩台〉がないので封印はできないということもあり、てんちゃんは〈ぬらりひょん〉を担ぎ上げると、そのままホームから降りる階段へと突っ走る。

 予定ではすでにあそこには〈社務所〉の禰宜さんが人払いの術を掛けているはずだ。

 どんなに人ごみで混雑していても人を近寄らせない便利な術が。

 そこに逃げ込んでしまえば大丈夫だということだろう。

 てんちゃんが風のようにホームから消え去ると今まで沈黙のままに壁となっていた人々が動き出す。

 まるで、二日酔いの朝のような浮かない表情で。


「あれ……いったい、なにがあったんだっけ?」

「変なお爺ちゃんが……」

「―――可愛い巫女さんもいたような」

「あ、やばい、遅刻だ!!」


 一人が遅刻と叫んだせいで、状況に気が付いたのか、深く考えることを止めて人々はホームを歩き出す。

 人払いが解かれたのか、あとはスムーズなものだ。

 日本人というのは実に労働が大事で感覚を切り捨ててしまうだということがよくわかる。

 この一連の騒ぎも昼までには、「何かあったかも」程度のことにされてしまうんだろうな。

 問題はスマホなどで撮影されていないか、だが、こればっかりは運に頼るしかない。

 何事もなく解決しますように。

 すると、ピピピピと僕のスマホのアラームが鳴った。


「あ、学校に行かないと」


 かくいう僕も事件解決の余波よりもこれから登校しなくてはならないという気持ちが強いので人のことは言えない。


「じゃあ、ロバートさん。てんちゃんによろしく」

「―――ちゃんと着替えてけよ」

「おっと忘れるところでした。では!」


 僕は慌てて山手線のホームへと向かった。

 新宿にいってロッカーから僕の制服を取り出して着替えないとならないからだ。

 まったくもう女装は懲り懲りだよ。


 ―――ところで、僕にかかった幻術はいつごろ解けるのだろうか。

 このままだと僕は制服を着替えたら、今度は男装の麗人になってしまうのだからとても問題である。


「あ、御子内さんに連絡しなきゃ……」


 こうして、僕のあわただしい週末と週明けはようやく終わりをむかえたのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る