第584話「豈馬鉄心VS〈イゴールナク〉」
〈イゴールナク〉の発する悪意は瘴気であり、すでに毒そのものと言ってもいいぐらいに強力な風と化していた。
全身〈気〉で防禦していたとしても、鉄心の周囲の壁や床、天井でさえも変色し、ひび割れ、腐りきっていく。
鉄心の纏っていた巫女装束も同様である。
あっという間に、彼女はボロボロになった襤褸切れを身体に貼りつけただけの一糸まとわぬ姿になってしまう。
「うむ、オールヌードか。わしの心の事務所では水着以上はNGということになっておるのに。これでは性癖を誤解されかねんな」
〈気〉が通っているだけではなく、生身にまでは悪意の腐食は及ばないようであった。
ただ、この颶風のごとき悪意を受け続けているだけで、鉄心の鋼のメンタルが崩れ落ちていきそうであった。
媛巫女になるために鍛えに鍛えた精神力がなければみるみるうちに溶けてしまっていただろう。
「―――身内の悪と戦うというのも、これはこれで挑戦し甲斐があるのお」
最初の内こそ苦戦したが、慣れてくるにつれて、心の中の善悪の葛藤もどうということもなくなってきた。
なぜなら、不正や欲望に負けるという選択肢を排除していけばいいだけなのだから、コツさえ掴めば葛藤はただの気の持ちよう次第となるからだ。
キリストが荒野でなされた悪魔の試しというのもこれと同じようなものだろう。
かつての聖人・聖女・仙人と似たような修業をしてきた彼女にとっては懐かしささえも感じる。
「欲望を増幅させることが、悪ということか。―――つまらん答えだが、邪神のレベルではそんなものしか定義づけできんということだろうな」
襤褸切れが張り付いたままの一糸まとわぬ姿のまま、鉄心は〈イゴールナク〉に近づいた。
すでに全身のいたるところに深い裂傷が生じていた。
邪神の掌の牙によって斬られた部位だ。
首のない肥満児めいた人間体の最大の凶器がそれである。
噛まれる必要もなく、ただちくりと痛みを感じただけで切り裂かれているのだからどれほど鋭利なのか。
鮫や虎のものとも違う、肉食獣というよりカミソリが埋まったような牙であった。
「まったくただでさえ厄介だというのに、一糸まとわぬ裸体では防護すら期待できんではないか。おぬしが女の裸に欲情する正常な男子であったのならばともかく、こんな姿ではなんのメリットもない」
すっぽんぽんという言葉が似つかわしいというのに、ギリシア彫刻のように美しい筋肉をもった鉄心の裸身はいささかも色気を感じさせない。
わずかに残ったパンツの白だけが異様に浮いていた。
「なぜ、わしが白いパンツを履いておるか、知っておるか、邪神よ」
当然、首のない邪神は答えない。
それどころかいつまでも悪意のこもった妖風を受け流すニンゲンにしびれを切らして、両手を広げて抱きしめようとした。
もちろん、ハグなどではない。
ベアハッグだ。
締め上げた後、掌の牙で食い散らかそうという算段であった。
神の抱擁。
言葉だけで考えるとなんともいえないほどに神々しいが、鉄心にとってはけっして捕まってはならないものである。
「パンツは女の最後の着衣だからだ。秘所を護るのは、ここより産まれる未来の我が子のためだ。神聖なのは、母の愛を護るためなのだ。ゆえに、わしは己の心のようにまっさらな白であるべきだろう」
真顔で言った。
鉄心は本心からそう信じていた。
自分は花も実もあるJKで、いつかは妻になり母になるのだから己の心だけは裏切って汚らしくしてはならない、と。
一人と一柱はぶつかった。
共に全裸。
マッチョと女マッチョ。
筋肉が荒ぶる激突のワンダーランド。
〈イゴールナク〉の左手を組んで極めて投げて床に叩き付ける。
相撲使いの彼女であったが、籠手投げ同様に最低限のレベルの他流派の技も使いこなすことができる。
特に〈イゴールナク〉は迂闊に触れると危険という相手であるから、得意のがっぷり四つに組んでからの投げが使えないので分が悪く色々と小手先の対応をするしかないのであった。
だが、特技が使えなかったとしても鉄心もまた〈社務所〉の媛巫女である。
使える技で戦うしかないとわかったら、それを最大限に発揮するだけだ。
「ふんが!!」
鉄心は背後に回ると、〈イゴールナク〉の両手首を捻ってそれぞれを握った。
見た目はがっちりとした筋肉質のようだが、邪神の手首から肩にかけては骨らしい堅い部分が見つからない。
回転しつつ交差させてその脇に頭を突っ込んだ。
そのまま、鉄心は後方に飛んだ。
まるで十字架に張りつけられた救世主のように〈イゴールナク〉は上半身が床に突き刺さる。
もし邪神に首があったらそれだけで一発でKOされてしまいそうな大技であった。
「怪物十字架落し!!」
これは鉄心には珍しいレスリング技であった。
しかも、苦い思い出のある技だ。
「昔、わしはこれで或子に負けてな。いつかリベンジせんと狙っていたのだが、あいつよりも先に邪神に使うことになるとは思わなんだよ」
かつて、まだ同い年十三歳の或子に背後を取られて、この技で負けたのは懐かしくて苦い記憶だった。
あれから一度も鉄心は幼馴染に勝ったことがない。
今も続く連敗街道の幕開けとなった技なのである。
ただ、悔しいとは思っても恨んだことはない。
正真正銘、真っ向勝負をして負けたのだ。
そこに怨恨の入り込む余地はない。
闘士とは共に戦って練磨する相手がいるからこそ高みに到着できるのだ。
恨みや嫉みなど、抱いたとしてもいつまでも抱いていては身動きが取れなくなるだけだ。
優れた闘士は忘れることが得意だ。
反省はするが、いつまでも後悔はしない。
憎しみや敗北感を背負っても次の日にはけろりとして忘れてしまえなければ、ネガティブな心は成長をすぐに止めてしまうのだ。
彼女の同期―――十三期の仲間たちはネガティブさなど忘れてしまうほどに眩しいものを見続けてしまったから、そう簡単には負には染まらないのである。
「邪神よ。おぬしはまだ本調子ではないようだな。それでも石埼殿に憑りついてこんな〈ラーン・テゴス〉の居城にやってきた。……何か理由があるようだな。やはり、妖力をなくして抜け殻同然の〈ラーン・テゴス〉を世界中でさらしものにしていたことには理由があるようだな」
もちろん、邪神は答えない。
口がないからということもあるが、ニンゲンに詰問されるなど神の誇りが許さないのだろう。
「答えたくないのならばそれで良い。本調子には及ばないというのなら、只人のわしでもおぬしを滅ぼせるだろう。―――ふん!!」
気合いと共に鉄心の掌に〈気〉が集中していく。
それはあまりの莫大さゆえに光輝いて見えた。
「〈
下から伸びあがった鉄心の掌が〈イゴールナク〉の胸に手形を穿つ。
合計十個の穴が開いた。
徹底的に鍛え上げられた指が貫いたのであった。
そしてそのまま手を押し開く。
天岩戸に立て籠もった太陽の主神を取り戻す怪力の神のように。
『!!!!!!!』
〈イゴールナク〉の胸が筋肉ごと引き裂かれた。
赤い血は出ない。
この邪神は肉体を持つ存在ではなかったからだ。
悪意や嫉妬というマイナスエネルギーが具現化しただけの、そんな実体のない化け物であった。
依代にしていた石埼老人が二柱の神に滅ぼされたことで、表に出ることになったが、もともと精神寄生体の一種でしかない〈イゴールナク〉は、存在そのものが希薄なのであった。
ゆえに鉄心の怪力によって胸を引き裂かれ、まるで蝋人形のように二つに割れた。
上半身が二つになった邪神に対して、鉄心はさらに容赦せずに力を込める。
バリバリバリバリ―――!!
生木が裂かれるように邪神の巨体は真っ二つに解体された。
〈
日本神話で最大の怪力の持ち主と謳われた神の二つ名を持つ豈馬鉄心の本領が発揮されたのであった……
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