第473話「なかなかどうしてニンゲンは負けない」



 かつてないほどに異形の妖魅と相対そうとする或子の前に立ち塞がったものがいた。

 彼女と大して変わらない程度の身長しかない小柄な美少年―――霧隠明彦であった。


「―――御子内或子。あんたはまずあの人間みたいなのを制圧しろ。この化け物は俺が時間稼ぎする」

「キミがかい? ……ふーん、時間稼ぎね」

「できないと思うか」

「いや、その程度のことがこなせない奴だったら、ボクの京一の護衛にはつかせないよ」

「あんたのじゃないぞ。増長すること甚だしい奴だな」

「別に。事実だからさ。とにかく大口叩いたんだ。


 或子は横っ飛びをして、顔のついた縄の塊から離れた。

 その背後に隠れ、今にも逃げ出そうとしている双子の片割れをまず仕留めることにしたのだ。

 さっきの奇声と呪文はこの兄弟を呼ぶためだったのは間違いなかった。

 401号室に潜んでいた怪物が家族の危機を救うために猛威を振るい出したのだ。

 

(きっと双子を追いかけていて行方不明なった高校生というのは、この視えない化け物にやられたんだ。となると、壊されたハイエースというのもこいつの仕業か)


 あの奇抜ともいってもいい潰れ方は、この怪物が落下した結果に違いない。

 どうやって部屋から出たのかはわからないが、NPO法人の職員を消しただけでは飽き足らず、乗ってきた車まで壊すとは並大抵の怒り狂い方ではなかった。

 行方不明になった高校生たちに対しては、そこまで執拗ではなかったから何かがあったはずだ。

 それをいち早く考えつき、まっさきに棟の入り口に走っていたのは升麻京一である。

 或子が不可視の怪物を抑えた直後に、彼はすでにやらねばならないことを見定めて動き出していたのである。

 ただの高校生。

 京一は今でも自分のことをそう考えている。

 しかし、彼を知る人間がそれを強く否定するのはここ一番で見せる異常なまでの行動力ゆえであった。

 双子の片割れが兄弟に危機を伝え、それを聞きつけた怪物がやってきた直後、時間にすれば十秒もかかっていないかもしれない間に、霧隠と同じことを考えそれを実践することができる決断力。

 御子内或子の強さが神にさえ弓引く意志力であるとすると、助手である升麻京一の力は咄嗟の決断力にある。


「―――京さんに考えがあるというのなら、ここでやることは時間稼ぎしかない」


 そして、この少年の可能性を知っている霧隠が選ぶのは、もう一つの道しかなかった。


(いかに御子内或子が強かろうとも、この化け物はあまりにも未知数すぎる。まずは少しでも手の内を晒させないと……)


 幸い、この戦場は突然のゲリラ豪雨が大地にぶつかることで生じる雨滴で煙っている。

 地上に近い部分ではまるで霧が発生しているようだった。

 そして、この戦場でこそ彼は、父祖の名に恥じぬ忍びとなれるのである。


『キヰヰイイイイイ』


 生物の鼓膜には怪音以外の何ものでもない悲鳴だった。

 同時に何本もの触手の先端が槍のように霧隠の身体を貫いた。

 その速度はプロのピッチャーのストレートと同等の速さだった。

 一本だけならばともかく何本も一斉に襲い掛かってくるとなると、どれほど反射神経と動体視力が優れていてもすべてを避け切ることは奇跡に近い。

 怪物の触手はすべて霧隠に刺さった。

 鈍重そのものの肉の塊でありながら、人の放つ拳よりも速いのだ。

 だが、やられたはずの霧隠は異物が刺さっているというのに平然とした顔をしていた。


「……どれほど速くても、俺には当たらない」


 霧隠は言った。

 触手の刺さった自分の横に並んでいた霧隠明彦が。

 二人ではない。

 霧隠明彦はこの場に五人いた。

 雨が激しく降り注ぐたびに霧隠の姿は次々と増殖していく。

 この場全ての空間が霧隠明彦という人間によって排他的に占有されていった。

 やや離れた場所で双子の片割れ相手に死闘を繰り広げていた或子までが目を剥くほどの異常事態であった。

 もしこれが妖魅であったのならば、このぐらいの秘儀は行えるかもしれない。

 だが、霧隠は忍びではあるが、ただの人間だ。

 人間が行えるものではありえない。

 しかし、霧隠は―――


「うちはもともと霧使いの一族なんですよ」


 ゲリラ豪雨によって生じた飛沫が霧と同じ効果を起こし、弾けた水が霧隠を映し、鏡のように反射していく。

 そして、霧隠の幻は際限なく増えていくのだ。


「忍法〈霧隠〉。―――っていいますか、うちの忍群だけに伝わる幻法の一種です。幻法を使えるのは妖狸族だけではないってことですよ」


 彼らには妖魅を倒すだけの力はない。

 敵を討つのは退魔巫女たちのお役目だ。

 だが、それができない人間たちだとしても、こうして敵を惑わして恐ろしい敵相手に時間を稼ぐだけのすべはあるのだ。

 邪神の眷属たる双子は知らない。

〈社務所〉に属するすべてのものがきたるべき戦いの時期に備えているということを。

 いつか戦うのは媛巫女だけではない。

 霧隠をはじめとする禰宜も宮司も準備はしているのだ。

 総力戦の日は近い。

 だからこそ、人は不屈の意志で邪悪に立ち向かう用意を怠らない。


 ―――それは団地の棟に飛び込んでいった升麻京一とて変わることはなかった。


 


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