第472話「邪神の落胤たち」



 回り込むのには時間がかからなかったが、たったそれだけの間にいきなり天候が変化し、滝のように雨が雪崩降ってきた。

 まるでさっきの怪物じみた奇声が雨を呼んだかのようだ。

 建物を半周するだけのほんの十数歩。

 それだけでこんなにも景色が変わってしまうものか、と驚いてしまう。

 篠突く雨どころか、雨粒が目に入ってしまい、少し先も見えなくなるような悪天候の中、僕らは裏手にまわりこむ。

 裏から402号室の偵察に行った霧隠が心配だ。

 頼りになるとはいえ忍びのあいつは、御子内さんたちに比べると戦闘力が足りない。

 もし、想像もできないほどの強い妖魅がいたら、霧隠の命にかかわる。

 本来ならば女の子の御子内さんを心配しなければならないところだけれど、冷静に、客観的に考えるとやはりそうならざるをえない。


「霧隠っ!!」


 雨水が大地にぶつかることで生まれる霧で煙っている先に、霧隠ともう一人の影があった。

 その影が立ち尽くしながら吠えていた。

 あれがこの奇声の主か。

 僕たちが探っていた双子の片割れだろう。


『D.D.……D.D.―――!!』


 この激しい雨の中で、耳をつんざくような、薄手のガラスなら粉々に割れるかのような絶叫。

 人間が発するものとは信じられなかった。

 しかもその後に紡ぎ出した言葉―――いや、呪文か―――は、僕と同じ声帯で出せるものとは思えない。

 それは異世界の言葉であった。


『ンガア ンンガイ ワフル フタグン ヨグ・ソトオス! ヨグ・ソトオス! イア! イア!ヨグ・ソトオス! オサダゴワア!』


 日本語ではない。

 意味はさっぱりわからなかった。

 だけど、単語の一つ一つにこめられた悍ましいまでの呪詛は僕にさえ読み取れた。

 絶対に意味があるのだ。

 おそらく、僕ら人間にとっては耳にするのも悍ましいほどの悪意に満ちた意味が。


「京一、この雨だと何があるかわからないから建物にまで下がれ!」

「―――うん。気をつけて」


 雨に濡れていつもの髪型ではなくなっていた御子内さんが指示を出してきた。

 彼女の心配もわかるので意地を張らずに団地の壁まで退いた。

 僕が彼女の足を引っ張る訳にはいかない。

〈護摩台〉を作っている時間がなければ僕はただの傍観者に過ぎない。


 ズシン


 背中が地震のような衝撃を感じとった。

 つけていた団地の外壁から伝わってきたのだ。

 地震にしては不自然な震動だと思う。

 叫び続ける双子とそれを睨みつける御子内さん、反対側で警戒を続ける霧隠の様子は変わらない。

 つまり僕しか感じ取っていない震動なのだ。

 大地が揺れて団地が震えているのではなく、団地だけが揺れている。

 まるでこの鉄筋コンクリート製の建物自体が怯えているかのごとく。

 見上げてみた。

 顔に大粒の雨がぶつかって見難いが、一番上まで見渡せる。

 おかしな様子はない。

 

 ズシーン


 またしても揺れた。

 しかも今度は横揺れだ。

 さっきよりも背中に強く当たる感じ。

 要するに、建物の上の方で何かが動いているとしか思えない。

 さらに三度目の震動とともに、破裂音と共に団地の一角が吹き飛んだ。

 ガラス片と窓枠とベランダの柵が弾ける。

 内部から爆弾が破裂したかのようだった。

 だが、爆発音らしきものはない。

 なんだ、何があった!?


「ちぃ!!」


 御子内さんが雨以外にも降ってきた窓の欠片を避けながら、見上げた。

 彼女にしては珍しい。

 明らかに敵と思しきものがいるのに、そこから目を切ってしまったのだ。

 いや、それも仕方のないことだった。

 団地の一部を内部から破壊して、姿を見せたそいつの巨体を無視することはできなかったのだろう。

 ベランダのすべてを覆い尽くすかの如く巨大で重厚な肉塊。

 にょろにょろと蛇の鎌首のように蠢く縄のような触手。

 下から見てわかるのは、まるで枝の伸びた脳みそが動いているのではないかという圧倒的な恐怖だけだ。

 そして、何より恐ろしいのは―――


 激しく降る雨がなければ、そいつの姿を視認することが叶わないという点であった。


「運よく雨が降っているから、水粒が弾かれて大きさや形がわかるけれど、あいつはそもそも透明な存在なんだ……」


 不可視の魔物。

 そんな形容がぴったりとあてはまるような怪物であった。

 壊したベランダから下を窺っているのも一瞬だけ。

 そいつは躊躇いもなく、一目散に落下して来た。

 着地のインパクトで今度こそ大地が揺れる。

 少なくとも重量は2tを超えているはず。

 でないと、あんな大きさの身体は維持できない。

 落ちてきただけでわかるが、大きさは八畳一間にぎっしりと詰まるほどだろう。

 全体に丸い脳みそみたいだという第一印象に間違いはない。

 ただ、違うのは脳のしわの部分が蠕動する縄のようなものの集合体だということだった。

 蠢く縄でできた塊。

 不気味そのものなのに、意外と器用に動くのである。

 おそらく大地と接している部分で蛇腹が前後左右に動かすのだと思う。


「な、なんだ……」


 ただ、僕があまりの名状しがたさにえずいてしまったのは、その全身の気持ち悪さに対してではない。

 塊の中心。

 御子内さんの方を向いている前部に貼り付けているものを目撃してしまったからだ。

 全身の縄は雨がなければ不可視そのもの―――透明でしかないのに、その貼りついたものだけははっきりと理解できた。


 それは「顔」であった。


 さっきから奇声と呪文を唱え続ける、ざんぎりの白い髪の毛をした痩せた尖った耳をした双子と同じ顔をしていた。


(もしかして―――そういうことか)


 僕は悟った。


 今、落下して来たあまりにも荒唐無稽で、吐き気を催すほどに形容しがたい、この無数の螺旋にめぐる触手でできた怪物は―――


 あいつのということを。


「―――二か月前に死んだ母親が育てていた双子の兄弟というの……」


 痩せ細りバランスの崩れた身体つきをしているが、人間の一種といってもいい姿形のあいつと―――

 この触手の塊に顔のついた化け物なのだ。


 ニヤリ


 触手についた貌が歪んだ。

 笑みだった。

 無機質な昆虫が笑う以上におぞましかった。

 生きとし生けるものすべてを恨んで呪っているといっても過言ではないほどに人知を超越している。

 狂った自然法則の結晶―――悪夢そのものだった。


(いくらなんでもこんなの初めてだよ……)


 これまでも多くの妖魅に遭遇してきたけど、こいつは中でも極め付けだ。


「―――やはり〈全てにして一つのもの〉の眷属か……。ううん、眷属なんてレベルじゃないね。キミ、神の落胤だね」


 それでも。

 それでも、御子内或子は立ち向かうのか。


「ボクたちが斃すべき神々との前哨戦がこんなにも早くやってくるとは思わなかったけれど、それも天照大神の御神託かもしれないか」


 御子内さんはいつものように構える。

 ここは〈護摩台〉ではない。

 妖魅の力を押さえつける結界はないのだというのに。


「ボクがキミ程度も斃せないようじゃあ、これから先が思いやられるよ。でもね、神の落胤。―――神を前にしても意志の力で刃向かうこと。それができなければ、どのみち明日はやってきてくれないのさ」


 噛みしめるように放たれる言葉は、誓いではなく脅迫そのものだ。

 勇気が恐怖に負けないように。

 精神が敗北に穢されないように。

 自分を土俵際に追い詰めて活路を見出すのだ。


「征くぞ、悪神。人の牙の鋭さを思い知るがいいさ」


 ―――御子内或子がついに異世界の怪物に挑む。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る