第471話「猿飛の秘技」



 御子内或子に言われたからという訳ではない!!


 と、心中言い訳をしまくりながら団地の棟の裏に回った霧隠明彦は、ベランダになっている側をずらりと見渡した。

 四階建て程度ならば、彼の技術なら一っ跳びで駆けあがれる。

 幸い、第13棟の裏手はフェンスに遮られた林になっており、第14棟のほとんどからは死角になっているせいで見られるおそれはあまりない。

 これならば蜘蛛よろしく壁面を上がる彼の姿も目撃されないだろう。

 さっきまでいた表と違って、住民たちの視線も感じられない。


「さて、行くか」


 一階から四階までのベランダと並んで延びている雨どいに手をかける。

 指の力と体重移動、そして〈軽気功〉を使えば屋上へだって一瞬だ。

 上を向いた時、何かが視界に入った。

 黒いもの―――ではない。

 空気の揺らぎのようなものだった。

 海岸でもないのに蜃気楼がでるはずはない。


(気のせいか……いや)


 忍びは勘違いや気のせいという考えをもたない。

 違和感を覚えたのならば、そこには何か理由があるはずだ。

 内的要因ならば体調の変化や精神状態、外的要因なら温度差や高低差、その他もろもろ。

 何もないのに揺らいだものが視えたというのならば、考えられることは多々ある。

 しかし、慎重に分析を続けられる時間もない。

 何かあるということを頭の中に入れて動いてみるしか道はなかった。


「いざ」


 明彦の仕事は402号室の様子を見ることだ。

 とっとっと一気に駆け上がる。402号室のベランダを覗き込んで顔をしかめた。

 ゴミだらけだったからだ。

 しかも、腐臭も漂っている。

 普通はゴミ袋代わりに使われているコンビニ袋の封がされていないで、そのまま放置されていた。

 邪魔だからそのまま捨てたという様相だ。


(酷いものだ……。俺だったら五分ともたない)


 男にしては綺麗好きな部類に入る明彦には、まったく耐えられない光景だった。

 腐って固形化して黒ずんでいる鶏肉の塊なんてものもあり、とてもではないが人間の住んでいる場所ではない。

 職業柄、幾つかゴミ屋敷と呼ばれるものを見てきたが、これではただの動物の檻だ。

 乱雑を通り過ぎて混沌と化している。

 室内の気配を探ってみる。

〈気当て〉という技術だった。

 パッシブソナーのように〈気〉を指向性をもって放出し、生命体の発する〈気〉にぶつけることで存在を探る。

 それほど万能ではないが、気功術使いならばある程度はつかえるものだ。


(室内には―――うわっ!!)


〈気当て〉が探った先にはとてつもなく巨大な気配があった。

 最初は像かそれに匹敵する大きさかと思ったほど、室内のある一室すべてがその気配の発する〈気〉で埋め尽くされているのだ。

 明彦の記憶によれば、そこは402号室ではない。

 401号室だった。

 双子の隣の部屋なのだ。

 だが、そこに何がいるのか。

 と断言してしまってもいいのか。

 こんな日本の普通の団地の一室にあれほど大きな〈気〉を発するものがいるはずがないのだから。

 そして、発せられる妖気。

 これさえも尋常ではない。

 心を殺さねば踏みつけられてしまいそうな凶暴な妖しさであった。


「―――確かに〈護摩台〉なしでは媛巫女でも敵わないかもしれない」


 逡巡した結果、402号室の捜索も諦めるべきと判断した。

 これ以上は危険だ。

 強行偵察とはいえ、無茶をし過ぎるのは無意味である。

 明彦は〈軽気功〉を用いて飛び降りようした。

 だが、このとき彼はしくじった。

 402号室の窓が完全には閉じられておらず、人一人がすり抜けられるだけの隙間が空いているということに気が付いていなかったのだ。

 ゆえに、彼の存在に気が付いてベランダに飛び出してきた存在の接近に気が付かなかった。


『ぎぃやああああ!!』


 細くて垢で黒ずんだ割れた爪をもつ手が首に巻き付く。

 抱き付かれたのだ、と判断しても引き剥がせない。

 あまりにも凄まじい腕力だったからだ。

 相手を見てぞっとした。

 髪が真っ白で赤い眼をしていたからだ。

 しかも耳が大きく尖っていて、口元には吐いた泡が溜まっていた。

 双子の片割れであることは明白であった。

 獣のような形相で、乱杭歯を突き立てようと顔を寄せてくる。

 鼻をつくドブの口臭に辟易しながら、明彦はもがいた。

 力では負けている。

 ならば。


「くそがっ!!」


 下から腹部に膝を入れた。

 人の腹筋を打ったとは思えない妙な手ごたえ。

 蠕動する蛇腹を叩いたような怖気。

 しかし、そのまま力の限り後ろへ向けて

 ベランダの塀を飛び越え、明彦と双子の片割れは宙に飛び出した。

 そして、自由落下の物理法則に従う。


 完全に落ちるまでの時間はほんの刹那。


 だが、そこで違いを出せるのが戦闘における技術を持つものとそうでないものの差である。


「飯綱落としだ……!!」


 空中で相手を組み敷き、自分を守りつつそのまま大地に叩き落して倒すという忍びの秘術である。

 木の枝から枝を類人猿のように移動する〈猿飛〉の術に長けた忍びでなければ不可能に近い。

 霧隠明彦はその名とは裏腹にその術に秀で、ついでその名人でもあった。

 忍びにとっては必殺であり、一歩間違えれば死に直面する荒技だった。

 四階建ての建物から飛び降りればそれだけで致命傷だからだ。

 地面に辿り着く一瞬に〈軽気功〉で体重を消して、自分だけは衝撃を最小限に殺す。

 そこまでの間に体重を軽くしてしまうと思わぬ抵抗を受けるため、ギリギリの判断が求められるのだ。

 明彦はその賭けに勝った。

 双子は落下する直前まで明彦に押さえつけられ、その結果として脳天から地面に叩き付けられた。

 殺す覚悟でなければできないが、これを仕掛けた一瞬で明彦はすでに双子が人手はないことを確信していた。

 発する妖気がとてもではないが人のものではありえない。

 これは人の姿を模した〈妖物〉である。

 豈馬鉄心がしたように、人に害する妖魅と戦うのは〈社務所〉に属するものの仕事だ。


『ギャアアアアアアア!!』


 脳天から飯綱落としを仕掛けられたら、まず首の骨が完全に折れて最も堅い頭蓋骨さえ陥没する。

 ぶつかったと同時に獅子舞のように飛び退る明彦。

 残ったのは悲鳴を上げた双子の死体だけ―――のはずだった。


『いたいよ、いたいよ……』


 目から口から血を噴きだしながら、双子はすぐに立ち上がろうとしていた。

 痛がっているが、普通なら死んでいるはずなのだから、まともではない。

 信じられないタフさというのでは軽すぎる。

 そこにいるのは不死身といってもいい化け物だった。


『ディ、ディー、ディー ―――D.D.……』


 双子はふらつきながら何かの名前を呼んでいた。

 こういう時に人が名を呼ぶのは、親か兄弟と決まっている。

 彼が呼ぶD.D.というのは、きっと家族の名前だろう。


『D.D.……D.D.―――!!』


 ガラスが割れるかのような絶叫だった。

 とても人のものとは思えない。


『ンガア ンンガイ ワフル フタグン ヨグ・ソトオス! ヨグ・ソトオス! イア! イア!ヨグ・ソトオス! オサダゴワア!』


 邪悪なる呪文が頭上の曇天を貫き、雷までも招来し、この呪われし団地に忌まわしいゲリラ豪雨を降らせる。


「なんだ!!」


 或子と京一がやってきたとき、驟雨によって世界は濃霧に包まれてしまったかのようであった……

 

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