第576話「邪神〈イゴールナク〉」



 ロバート・グリフィンは、相棒の戦いが始まった途端、他の者に対する興味が極端に薄れていく升麻京一を見ながらため息をついた。

 いつものことではあったが、この少年はかなり壊れている。

 初めて出会ったときも予兆はあったが、会うたびにどこかが変になっていき、最近ではもう〈社務所〉の退魔巫女たちと同様にではなくなっていた。

 外観は普通だ。

 本当にどこにでもいそうで、目立つところはほとんどない。

 主義や思想も極端に振り切られている訳ではなく、頭脳も愚鈍ではないにしてもそれなり程度だ。

 カメラで遠くから切り抜いてみたら、何の変哲もないどこにでもいる普通のちっぽけな男の子だ。

 ただ、ロバートは以前から気が付いていることがあった。

 彼の独特の立ち位置について、のことだった。

 立ち位置といっても役割やポジションのことではない。

 文字通りに彼が京一が普段から立っている場所のことだ。

 最初は気のせいだと思っていた。

 だが、会うたびに違和感を覚え、それとなく観察をしてみてようやく気が付いた。

 升麻京一が自然に選んで立っている場所はということに。

 例えば、誰かが高速で走る自動車に轢かれて瀕死の重体になって倒れていたとする。

 その場合、心配して覗き込むもの、遠くからSNSに上げるために写真を撮るもの、気にもかけずに通り過ぎる……

 いかに無残であっても交通事故に対して人々が示す反応は様々なように見えてあまり変わりはしない。

 事故なんて滅多に遭遇せず、しかもいつかは自分が犠牲になるか、もしくは加害者になるかもしれない人々にとっては人柄に応じた反応が示されるが、それはほとんど似たようなものになる。

 明らかに奇妙な態度をとるものはいないものだ。

 だが、升麻京一は違う。

 車に轢かれるという事故を目撃したとき、彼は何故か空を見上げる。

 そこには事故車も被害者もやじ馬もいない。

 凄惨な光景から目を背けているのでもなく、じっと何かを探している。

 まるで頭上にこの騒ぎを産みだした何かがいるかのように。

 そいつが人を突き飛ばして車に轢かせ、結果として血が噴き出したのを愉しんでいるのを見抜いているかのように。

 突発的な事故の場に限らず、升麻京一はいつもどこかずれた場所から物事に接している。

 誰もが一瞬だけおかしいなと考え、ただの気のせいで終わらせてしまう絶妙な位置から観察をしている。

 まるでわずかだけズレた位相で生きているような、そんな少年だった。


(こいつはいったいどういう存在なのだろう)


 むしろ出自だけで語るのならばロバートの方がよほど得体の知れない存在である。

 アイルランドの妖精の血を引く〈透明人間〉であり、家業に従い、スパイ機関のもとで殺し屋となるために素手での暗殺術を学んだ。

 人殺しになりたくないため実家と祖国を逃げ出し、極東の島国に潜んでいたが、仏凶徒という狂人たちに襲われ、土産の妖怪たちに追い回され、挙句の果ては退魔師の少女のパシリとしてこき使われる羽目になった。

 そして、最近では〈サトリ〉と呼ばれる妖怪の世話役として暮らしている。

 ―――まったくもって平凡とはいいがたい。

 しかし、そんな彼でさえ、升麻京一については人として異端と断言できる。

 

 いつ、そうなったのか。

 それとも昔からそうであったのか


 泥の中を這いずるトカゲが空を飛ぶ鳥になり、火を吐く獰猛な竜になるように、ただの高校生は御子内或子と出会い、平凡であることから逸脱してしまったのかもしれない。

 ある意味では〈社務所〉の巫女たちよりも違うものへと。

 御子内或子とその仲間たちがときに異常なまでに彼に執着を見せるのは、愛情や友、または罪悪感でもなく酷い同族意識の一端なのかもしれない。


「……本人は意識していないかもしれんが」

「ん、ロバートさん、何かいいました?」

「いや。とにかく、私たちにとっては御子内の戦いにすべてがかかっていることは確かだ。それを見届けることにしよう」

「大丈夫です。御子内さんは負けません」

「おまえにはそう見えるんだろうな……」

「ええ」


 多少の皮肉では少年の心には刺さらない。

 すでに彼はそんな領域にはいないのかもしれない。


(だがな、升麻。おまえは自分が異常だということに薄々と勘付いているんだろう。おまえはそういうところは聡いやつだからな。……それとももう普通は諦めたのか、おい)


 ロバートは年下の友人がこれからの未来どれほどの苦難の道を行くのか想像して、ただ心中で嘆くことしかできなかった……



           ◇◆◇



「〈イゴールナク〉か。……石埼老人がかの邪神とはさすがのわしも気づかなかったぞ」


 丸太を担いで展示場からのっそりと歩き出した気当てを繰り返し、命あるものと強い妖気を発するものを見つけ出した。


「三階。……逃げる気か?」


 だが、鉄心はゆっくりとかぶりを振った。


「まさかな。神ともあろうものがたかが人間のJKごときに怖れを抱くはずがない。ということは別件であろうな」


 罠という可能性があったとしても鉄心は躊躇することはない。

 すでにこの屋敷で力を取り戻した邪神とは幼馴染が戦っていて、つきあいのある先輩は別の敵の領域に踏み込んでいった。


「わしだけが逃げるなぞ、できるものかよ」


 鉄心は確実に敵が潜む階段をずんと登っていく。

 手にした丸太にさすがに汗がにじんでいた。

 一歩登るごとに降るように漂ってくる妖気が増してくるからだ。

 人の皮を脱いだ邪神が放つ凄絶な呪いが汗腺を破壊し、どっと汗が噴き出してくる。

 暑くもないのに脱水症状になりそうであった。


「暑いのお。まったく夏は苦手だ」


 口元を笑いの形に歪ませながら、鉄心は嘘をついた。

 自分を鼓舞するための嘘を。

 いくさに挑む武者が身体を震わす恐怖を吹き飛ばすために法螺を吹くように、鉄心は暗示をかけたのだ。

 いかに豪胆な彼女といえども只人が神々に挑むなど無謀を通り越して自殺行為に近い。

 なのに、鉄心はいく。

 背中を見せるなど女子おなごのすることではないからである。


「女子力という奴だからのお」


 少なくとも豈馬鉄心はそれを女子力だと信じていた。

 彼女たちにしかできない生き様のための。


「―――来なさったか」


 三階の踊り場に、そいつは佇んでいた。

 青白く透き通ったような皮膚をした裸の大男であった。

 醜く太った腹部となで肩のせいで女性的にさえ見えた。

 触れれば破れて腐汁を垂れ流しそうな肌が怖気を誘う不気味さであった。

 だが、それだけであったのならばまだいい。

 そいつには

 ただし、口だけはついていた。

 蛙のように広い掌の中に。

 二つも。

 鋭い牙が生え、二つに分かれた舌を持つ口が。

 顔も目もない癖に、そいつは鉄心を視ていた。

 明らかに観察していた。

 獲物として。

 堕落させて悪の道へとひた走らせるための隙を探っているのだと、鉄心は聞いていた。

 只の人間であったのならば近づかれただけで悪によって脳髄が爛れてしまったかもしれないほどの悪意と妖異に満ちたアトモスフィア。

 人間性、倫理、道徳、人がこれまでに培ってきたすべての善へと至る道を汚す汚辱。

 それがこの邪神〈イゴールナク〉であった。


「おぞましいな、おぬし」


 鉄心は丸太を掲げた。

 まるで聖剣エクスカリバーを持った英雄のように。


「おぬしのようなものを野放しにはできんな。これ以上、石埼老人のごとき哀れな犠牲をだすことは人として看過できんよ」


 邪神を前に鉄心は人の道を説いた。

 それこそが神に抗う人間の正統性を訴えるものだというように。


「〈社務所〉の媛巫女・天手力男命アメノタヂカラオ豈馬鉄心が参る!!」


 ここでも人は神に反抗する。

 自らの立ち位置が正しいものと信じるのならば。


 

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