第575話「餌と獲物にならぬもの」
神撫音ララは、〈冥王の神託館〉に渦巻く禍々しい妖魅の気配に舌なめずりをした。
かつて沖縄にあったニライカナイに踏み込んだ時と同じ、人はおろか動物や虫けらでさえも拒絶する濃密な狂気の気配。
死の世界を行くのと同じ醜悪異様な空気の中をララは歩んだ。
隣を進む豈馬鉄心が咳をした。
豪放磊落にして、まさに益荒男といってもいい鉄心ですら呼吸をする度に肺に沁みわたってくる妖気に耐えきれず、思わず咳込んでしまったのだ。
「まだまだ甘いな、豈馬」
「わしは先輩程、Mな体質ではないのではな。このような空気の悪いところは願い下げなのだよ」
「減らず口を。十三期の小娘どもはすべてそればかりだ。御子内が入ってくる前に徹底的に絞めあげておくべきだったよ」
「先輩の方針ではわしらはこれ程ものにならなかったかもしれないぞ。もっとも、十一、十二の先輩方では下手にいくさ場にでたら即刻地獄行きだったかもしれんから、先輩のやったことが間違っているとは言わんがな」
すると、ララはうどんの中にフライドポテトでも入っていたかのように厭そうな顔をした。
「どんなお人好しな解釈なんだネ、それは。まるで私が使えない同期を間引いてきたかのようではないか」
「事実、その通りなのだろう? おぬしは妖魅との戦い―――最終的には神物帰遷によってやってくる邪神どもとの魔戦に生き残れそうにないものは早めに間引いて被害を少なくしようとしたのだろ? でなければ、あのいかれたしごきは理解できぬ」
「私はただのサディストなんダヨ」
「十二期で媛巫女になったのは二人だけ。先輩ともう一人だ。どちらも修行終了時には化け物みたいに強く一切の衒いのないツワモノだった。おぬしらであれば初陣で死ぬことはないだろうと、不知火範士が御墨付きを出すほどにな」
そんな鉄心の言葉をララは鼻で笑った。
「貴様たちはお人好しの度が過ぎるし、誰かに洗脳されやすいところが問題だな。そうやっていつまでも愚にもつかぬ繰り言をほざていたらいつか取り返しのつかぬ事態になると覚えておけ。誰よりも裏切りそうにないものが、貴様らの信頼を踏みにじることなど世の中にしたんとあるということを覚えておくがいい」
ララは〈ラーン・テゴス〉の黒い毛がなくなった玄関奥の広場を抜け、展示場まで走った。
ぬめりとした粘液と潮の香に覆われた通路を抜けて。
さっきまで猛威を振るっていた〈グラーキ〉の触腕である白いトゲは見当たらない。
でてきた場所から消えたのだろうと想像がついていた。
無残に破壊された大扉から中に飛び込んだララは凍りつく。
さすがの彼女も、ここまで激しい破壊の後というものはお目にかかったことも少ない。
続いてやってきた鉄心は、展示場にあった無数の蝋人形が無残に破壊されつくし、コンクリートの打ちっぱなしの壁も天井も数えきれないほどの瑕に侵され、床は山となったゴミに覆われていた。
どれほどの暴力的な力が振るわれたか想像もできないほどであった。
ひび割れていない場所はないというほどの惨状は、さすがに気丈な巫女二人ですらつばを飲み込んでしまうほどだった。
「凄まじい破壊力ダネ」
「う、うむ、腐っても邪神の一柱ということか」
「〈グラーキ〉の触腕がこれほどまでとは思わなかったヨ。イングランドと台湾からはこんな報告は受けていない。我が国の妖魅ではここまでのものはそうはいないかも」
「そうであるな。やはり邪神相手にしては
それは厳然たる事実。
ただの人間では決して抗えぬ、乗り越えられぬ力の差があった。
ただ立ち尽くして観察するだけでそれが理解できた。
だからこそ、〈社務所〉は仏法の守護者である明王の神格を人の身に顕現させる呪法を用いて人間の決戦存在たちを産みだしてきたのだ。
それこそ何百年もかけた試行錯誤と、何千にも達する人々の犠牲を元にして。
人は決して神には抗えぬ。
覆せぬ真実であった。
「手も足もでないカ……」
「そうだな」
「では、貴様は弓が折れ矢も尽きて、剣も槍も効かず、手も足もでないとなったとき、どうするんだ?」
「知れたこと。―――口の牙を突き立てるだけよ」
鉄心は腕組みをして不動の姿勢を取り、
「人が常に神に敵わぬと考えることがそもそも間違いよ。所詮、たかがレベルが100ぐらい違うだけの妖魅ではないか。人間がカンストすればなんとかならぬ相手ではない」
「―――不遜だネ。まったく十三期はそれだから……」
雄々しく負け惜しみを超えた強がりを吠える後輩に対してララは言った。
「まあ、ここは同意しておくことにしようか。怖れて震えて為すすべもなく殺されるのなんてのは、私もごめんサネ」
「当然じゃ。誰も立ち向かえぬ嵐でさえも突き進むことができるのならば、いつかは超えられるものだからのお。わしはそう学んだのだ」
ふん、と力を籠めると鉄心の手の中に丸太が出現した。
〈
ただの武器よりも鉄心にとってはぐんと使い勝手がいい。
「貴様は〈イゴールナク〉を探せ。依代の老人は死んだはずだが、まだあの人に憑りつく邪悪は健在だろうヨ。見つけ出して顕現できないほどにぶちのめせ。しばらくの間は甦れぬようにナ」
「奴は邪魔なのか?」
「でかいいくさが迫っておるのダヨ。そんな中にうろちょろされると面倒なことになりかねないのサ」
「―――了解だ、先輩」
神撫音ララはすでに廃墟寸前の展示場内に侵入した。
天井の一部も崩れ落ちているが、建物そのものの構造は無傷であるらしい。
古いわりに鉄骨でところどころが補強されていた。
そして、最奥の壁―――大理石で最も頑強に組み上げられていた場所には黒々とした穴が開いていた。
一見しただけで、物理的に気体化した妖力が渦巻いているのがわかった。
邪神はあそこにいる。
飛び出してきたのと同様にあそこから地上に支配の根を下ろそうとしているのだ。
ちろちろと白いものが蠢いていた。
〈グラーキ〉の触腕であった。
御子内或子にとって〈ラーン・テゴス〉が引きずり出されたことでやや行き場を失くしていたが、侵入者がいたことを悟り再び動き出したのだ。
来たのは、神にとっては「餌」だった。
腹も減っていたし、その「餌」からはなんともいえないいい香りがしていた。
聖なる哉。
美味なる哉。
美しく純粋な聖女の魂をもった「餌」が偶然やってきたのだ。
憎き
しかし、邪神は忘れていた。
世の中には食べれば美味いが棘と毒を持ち、決して口腔に入れてはいけない獲物があることを。
「外来種は、例え神であろうとみな殺すのが私ダヨ」
神撫音ララは
そのときの絶望に比べれば、たかが神の一柱などどうということはない。
「―――あの〈
無数の白いトゲを掻い潜ってのララの戦いが始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます