第444話「〈五娘明王〉熊埜御堂てん」



 薄れゆく意識の中で、熊埜御堂てんは父親の言葉を思い出していた。


(―――熊埜御堂の家は、もともと熊野三山くまのさんざんの神主の出なのだ)


 熊野三山は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つの神社の総称であり、修験道の熊野信仰の聖地である。

 その信仰の中心的な立場にあった神主の末裔が、熊埜御堂の家柄であった。

 かつては日本全国に約三千社あると言われている熊野神社の総元締として、那智の地に居を構えていた。

 熊野信仰は、江戸時代後期に神仏分離政策などで布教をしてきた聖や山伏、熊野比丘尼の活動が規制されたために衰退し、明治時代において政府の方針となった神仏分離令により完全に盛りは消えた。

 だが、それは明治の大帝による意図された衰退であった。

 全国の熊野神社はそのネットワークを維持しつつ、東西における妖の情報収集ともみ消すにあたり、〈社務所〉と〈庫裏くり〉、〈方丈〉などに協力するようになっていた。

 第二次世界大戦を境に、西日本での活動は下火になったものの、総領たる熊埜御堂家はいまだ隠然たる勢力を誇っている。

 てんはその一人娘として、おそらく御所守たゆうの跡を襲うだろうと目されていた。

 それは熊埜御堂の家柄だけでなく、彼女自身の力の強さもあった。

〈社務所〉に所属する媛巫女の中でも群を抜く呪力を持っていたのであり、明王殿レイ、神宮女音子などの錚々たる面子さえも遥かに凌駕している。

 とはいえ、それは先天的なものだけでなく、生まれてすぐに父親から植え付けられたある呪法の効力でもあった。

 その呪法こそが〈三尸〉の術。

 道教に由来する人間の体内にいるとされた虫〈三尸〉を赤子に植え付け、人ならざる呪力を備えさせるという秘術である。

 六十日に一度めぐってくる庚申こうしんの日に眠っていると、人間の体から抜け出し天にいる天帝にその宿主の罪悪を告げ、人間の寿命を縮めさせと言い伝えられる〈三尸〉を触媒にして大宇宙の力を得るというのがこの術の効果であった。

 いうなれば、呪力アップのためのスーパーチャージャーであろうか。

 自分の娘になす術としては外道の誹りを免れないものであろうが、実のところ、熊埜御堂家では呪力を上げることそのものはただの手段に過ぎなかった。

 本当の狙いは〈三尸〉に卵から孵化したばかりの子蛇を使うことで、赤子を蛇の化身に育て上げることにあったのだ。

 子蛇を使った〈三尸〉を五臓六腑と同じように自分の体内に自然なものとして摂りいれることができたものは、蛇の化身―――それを元にして聖性・召喚される、とある明王の神格を菩提心の覚醒により身に宿すことができるのであった。

 そして、術を植え付けたものたちの目論見通りに、ミニスカの巫女は憤怒する明王を宿した。

 南方に配される、燃え盛る蛇の化身・戦神である軍荼利明王ぐんだりみょうおうを。

 

「お主、―――〈五娘明王〉であったのか!?」


 文覚僧人は狼狽えた。

 噂には聞いていた。

 関東の退魔組織〈社務所〉が、仏凶徒たる彼らとはまた別のやり口で神物帰遷の時代を乗り越えようとしており、その切り札として用意されているのが〈五娘明王〉というものたちである、とは。

 大陸から徐福によって伝えられた道教の秘奥を継いでいた天皇家が、仏法と神道の融合を図った上で、百年かけて練り上げたという切り札。

 鍛え抜かれた少数の巫女の身に最強の五大明王を宿らせ、徒手空拳をもって神を討つための決戦存在。

 それが〈五娘明王〉。

 まさか、本当に存在し、しかもたった今目撃しているその力は彼の信仰する仏法の真の守護神である明王そのものであった。

 手にした〈荒行髑髏〉の力がまるでくすんだ石炭のようにさえ思える、荒々しく輝き続ける絢爛たる力が倒れている巫女の背中から炎のごとく聳え立つ。


「まさか、まさか、本当に明王の力を―――!! ありえぬ!?」


 大地の生命線といえる龍脈といえども、そのすべてを汲み上げられた訳ではなく、ここまでとは逆に文覚僧人の方が圧倒されてしまう。

 怒涛のようだった彼の呪力がさらなる大津波によって掻き消されてしまうかのごとく覆い潰される。

 てんは身じろぎすらしていないというのに、ただ発する呪力だけで文覚僧人を怯ませていた。

 文覚僧人は後ずさった。

 先ほどまでてんがどれほど近づこうとしても一度も動かなかった〈八倵衆〉がいとも容易く引き下がる。

 それがてんの放つ人のものとは思えない、神仏の呪力の波動であった。


「―――まあ、てんちゃんもこうなるとは思ってませんでしたけどねー」


 ぱちんと目が開いた。

 さっきまで無くなっていた瞳の中の光が元に戻っていた。

 意識が復活すると同時に、それまでの間に自分の身に何が起こっていたのかすべてを完全に把握する。

 蜘蛛の巣のように広がっていく意識の糸が、周囲の状況を手にとるようにてんに伝えていくのだ。

 このとき、熊埜御堂てんは確実に人知を超えていた。

 膝立ちから立ち上がったてんが首をコキコキと鳴らす。

 もうダメージはない。

 彼女が目覚め、身に宿した軍荼利明王の神格が傷の全てを癒したおかげである。


「お主、いったい……」

「あれ、てんちゃんは自己紹介しませんでしたっけ? しょうがないですねー。じゃあ忘れちゃだめですよー」


 文覚の慄きようをまるっきり無視して、てんは名乗った。


「あたしは熊埜御堂てんちゃんでーす。あと少しだけよろしくですよー」


 あくまで明るいてんだったが、その名を聞いた文覚僧人の方が遥かに驚く。

 彼はその名前に聞き覚えがあった。

 下の名前のてんではなく、熊埜御堂という姓について。

 西の仏凶徒でさえも知っている、熊野神社の総領の苗字であったのだ。


「熊埜御堂……!! まさか、最初から愚僧らの先回りをして、お主のような精鋭を送り込んできたというのか!?」


 文覚僧人のいうことは間違いではなかった。

 彼女たちを派遣した御所守たゆうは予感していたのだ。

 今回の事件の裏に暗躍している仏凶徒の〈八倵衆〉の存在と企みを。

 だからこそ、接近戦最強の御子内或子とそのタッグパートナーとして熊埜御堂てんを送り込んだのである。

 たゆうにはさらに深い思惑があり、それも成就したのであったが。


「なるほどですよ。〈五娘明王〉ってこういうやつですかー。まったく、たゆうのお婆ちゃまたちも変なこと考えますねー」


 猛蛇と呼ばれた少女にとって、大蛇の化身の力はとても馴染むものであった。

 しかも、今の彼女はすべてを支配しているかのごときパワーの煌めきを感じている。


 軍荼利明王―――熊埜御堂てんは遂に覚醒した。


 


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