第445話「クルクル取り引き」



 目覚める、ほんの少し前。

 仏教的に語るのならば、刹那の時間。

 熊埜御堂てんは、自分に話しかけてくる冷たい印象の声を聞いた。


(おい、くまのみどうてん。よく聞け)

(いやですよー。もうてんちゃんは指の一本も動きそうにないんです。なんとか鼓動している心臓みたいな不随意筋ぐらいしか無理ですねー)

(そのわりには意識は元気みたいじゃないか)

(皮肉はお断りですよー。ただでさえ、てんちゃんたった今敗北したばかりで凹んでるんですから、これ以上はノーサンキューです)


 てんにとって、これは二度目の敗北に当たる。

 聖地・後楽園ホールで江戸前の五尾のタヌキのうち、土佐弁の金長狸に、ハクビシンによって行動不能のところを助けられ、五番勝負の一本を不戦勝で渡すことになったあの時以来だ。

 もちろん、〈社務所〉の媛巫女がすべての戦いに勝てる訳ではない。

 敗北を喫し、または命さえも奪われることは長い歴史の中でも頻繁にあったことだ。

 しかし、てんの直接の先輩にあたる一期上の或子たちの世代は、実はほとんど敗北を知らない世代なのだ。

 見習いから初めて一人前の媛巫女になってから今に至るまで、てんが把握している或子たち黄金世代の敗北は、二年前の熊上藍色が引退寸前になったものと、ほんの数日前の豈馬鉄心のものだけである。

 鉄心のように同じ人の範疇にある〈八倵衆〉に倒されたのを例外とすると、数字にすればほぼ99%の勝率を誇るといってもいい。

 特に〈護摩台〉での勝負ならば100%になるだろう。

 だから単純な結果だけを見ると、てんだけが劣るのだ。

 年齢は言い訳にならない。

 媛巫女の飛び級とは、それだけの力があると認められたからこその処置なのだから。

 そして、今回の敗北だ。

 相手が圧倒的な〈八倵衆〉だとしても、てんのプライドは大いに傷付いた。

 断じて甘受できる結果ではない。

 しかし、同時に骨身にしみて理解していた。

 あの文覚僧人は、呪力というを極限まで磨いてきた化け物なのだ。

 てんたちが筋肉や神経を鍛えたように、あいつは呪力を鍛えてきた。

〈三尸〉のうち、〈下尸〉と〈中尸〉まで覚醒させても上回ることさえできなかったのだ。

 単純にもう打つ手がない。

 あることはあるのだが、切り札としての使い方を知らない。

 つまりは万策尽きたのだ。

 だから、変な声が話しかけてきてもめんどくさいだけだった。

 責められているようでうざったいのである。


(このままでいいのか)

(良くはないですねー。だって、あいつ、今、〈地震髑髏〉とか言いましたよね? いかにてんちゃんがお間抜けでもわかりますよー)

(なにがだ?)

(あいつらがしようとしていることですよー。―――地震を起こす気なんでしょー。しかも場所からして東京かな? そんなことしたら、どんなに人が死ぬかわかっていてやる気なんですよー、あいつら。プンプン)


 口調は軽いが、てんの内心は千々に乱れていた。

 あいつらのやることを絶対に許したくないのに、もう指の一本も動かせないのだ。

 万事休すでさえあった。


(―――このままでいいのか)

(しつこいですねー。何かできるんなら、てんちゃんだってやってるんです。でも、もう手も足も出ないからこうやって凹んでいるんじゃないですかー)

(手ならあるぞ)

(一応、聞いてあげまーす)


 声は言った。


(俺はおまえに植え付けられた〈三尸〉のうち、脳にいる〈上尸じょぅし〉だ。俺を覚醒させれば、〈三尸〉すべての力をおまえは使いこなせるようになる。それだけじゃねえ、おまえの中に用意されている明王との繋がりが一気に開くぜ。それだけであのクソ坊主には勝てる)

(へー、あなた、〈三尸〉だったんですかー。あー、脳についているからてんちゃんと話ができるんですねー。で、〈三尸〉さんのいうことを聞く見返りは何ですかー)


 これは当然の話だった。

 文覚僧人という圧倒的な敵を倒すことができる奇跡の見返りに何も要求されないはずがない。

 しかも、相手は執拗に取引を持ち掛けている。

 取引には対価が求められる。

 だから、てんは聞いたのだ。

 悪魔だったら何を求めるのか、と。


(俺ら〈三尸〉は庚申の日に眠ったやつの身体から抜け出して、天帝にそいつの罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めるのが仕事だ)

(宿主を夭折させて早く自由になりたいからなんですよねー)

(……確かにそうだが)

(別に誤魔化さなくてもいいですよー。てんちゃん、勉強家なのでよく知っています。で、それがどうしたんですかー)

(おまえが寿。どうだ、いい取引だと思うぜ)


〈三尸〉としてはやや分の悪い取引だとは考えていた。

 本来なら、宿主の無知を利用して寿命を減らすのが正しいのだ。

 十年分の寿命といえばかなり多い。

 普通なら躊躇する。

 最後には商談が成立したとしても、あまりに不公平感があるからだ。

 てんが産まれてから十五年近く人間に植え付けられていたからか、〈三尸〉の思考は人に近い。

 だからこの取り引きは失敗したかと思った。

 しかし。


(じゃあ、それでー)


 熊埜御堂てんはわずかな逡巡もなく了承した。

〈三尸〉が思わず黙ってしまうほどに。


(―――いいのか)

(かまいませんよー。それでこの劣勢が覆せるというのなら、別に悩むことじゃないですからー。てんちゃんの十年で地震を止められるっていうんですから願ってもない申し出じゃないですかー。で、どうやるんですか)


〈三尸〉は対照的に躊躇いつつ、説明をした。


(た、他の〈三尸〉に力を注いだ要領で額に力を集めろ。額にはおまえら人間にとっての〈輪〉があるからな)

(あー、アージュニャー・チャクラのことですねー。第六のチャクラの。それなら回せると思いますよー)

(な、なんだと!? チャクラというものは聖なる部位だぞ。しかもその中でも額のものと頭頂のものは選ばれた聖人しか使えないっていう霊験あらたかな……)


 だが、そんな〈三尸〉の口上もてんには届かず、しかも、ほんの少し試してみただけで少女の額にはかつてないほどの呪力が集中していく。


(マジかよ……。額のチャクラをまわしやがったこのアンポンタン娘……)

(酷い言い方、止めてくださいよー。で、これで〈三尸〉さんは覚醒するんですよねー)

(ま、まあな。だが、てめえの寿命は間違いなく十年減るぜ。本当にそれでいいのかよ?)

(いいですよー)


 逆に悪魔の誘いをかけた〈三尸〉の方が戸惑うほどに呆気ない態度であった。


(十年だぞ、十年!!)

(うーん、きっとわかっていると思いますけど、てんちゃんたちはきっと二十歳まで生きられるかどうか怪しいんですよー)

(……)

(あと数年で間違いなく、この国に気持ち悪くて不気味で厭なことばかりする神様たちが還ってくるんですよねー。てんちゃんたちは、そいつらとやりあって討ち取るのを目的で育てられているので、まあおそらく長生きはできないです。神を殺せば祟られますしねー。だから、最初の寿命が五十年だとしたら、二十歳までのぶんで三回ぐらい〈三尸〉さんを回してもまだ問題はないかなー)


 あまりにも異常な思考の持ち主である。

 命を軽視しているというよりも、命を武器とし過ぎている。

 だからこそ、生きている限りそれが逆転のチャンスに結びつけることができるのであるはあるが。

 ただ〈三尸〉にとってもそれが異常なのは間違いない。


(てんちゃん、自分が死んじゃうことより関係ない人たちが消えちゃうことの方が怖いんですよねー。死んじゃったら骨も折れないし。だったら、てんちゃんが死んじゃった方がいいかなって)


 他人を壊すことに罪悪感の一つも覚えないサイコパスロリータだからこその感想であった。

 彼女は結局、人が好きなのだ。

 人間賛歌が彼女の謳う歌なのだ。

 ゆえに自らを切り捨てることに躊躇いはない。

 他人が生きてくれればそれだけで彼女は幸せになれる。


(おまえは狂っているよ)

(物狂いでなければ人助けはできないんですよー。人をいびつだとか、在り方が間違っているとか言っている暇があったら、どんどん狂々くるくる回って戦えばいいんです。で、あとで救われた人間たちを見てニヤリと嗤うんです。「みなさん、てんちゃんなんかに助けられちゃったんですよー」ってね)


 そうして、熊埜御堂てんは額のチャクラを回し、〈三尸〉に力を喰わせた。

 目覚めた〈三尸〉の呪力がてんの肉体を霊的に駆け巡り、そして、彼女の狂いつつも人を救いたいという清く歪んだ心が遥か彼方の焦熱世界に棲むという一柱の明王を喚び覚ます。

 南の戦神・軍荼利明王がやってくる。


オーム キリキリ バザラ ウン ハッタOṃ khili khili vajra hūṃ phaṭ!!」


 金剛軍荼利真言とともに。


 多くの衆生を人知れず救済するために。


 熊埜御堂てんのもとに。

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