第497話「新宿の地下にて」
足元だけが辛うじて見通せる暗闇の中を、二つの人影が歩んでいた。
ハンドライトと呼ぶには巨大な電灯をもった手以外は、完全に闇に溶け込んでいる。
道と呼ぶには急すぎる勾配が続いているが、二人が進んでいるのは洞窟などの自然にできた場所ではない。
足裏の感触はまるでつるつるのコンクリートだった。
そのせいもあり濃密な闇は人工的に作られたもののようである。
中央に多少窪みのようなものがあるのは、ここを行き来した人間の足による轍であろう。
進行方向に当たる下からときおり温い風が吹いてきて、祈りとも呻きともつかぬ微かな声を流し込んでくる。
「シューズを脱ぐか、アイゼンみたいなのをつけろと言われた理由がわかったよ。すべりやすくて仕方がない。手すりを付けるなりしてくれればいいのに。今どき、太田山神社の本殿だってアイドルが登れるぐらいにはなっているんだよ」
「この程度が辛いのか、〈社務所〉の大聖」
「まさか。この程度なら道場時代の方が厳しかったさ。ただ、同行者が信用ならない奴なんでストレスが大きくなるだけ。なあ、
御子内或子は厳重なまでに、鎖で縛りあげたかつての敵に言った。
とはいえ、犬のように鎖で引いている訳ではなく、歩くことに不自由がないぐらいには解放されていた。
「……これだけきつく縛られて何かできるものかよ。ちなみに、拙僧も知らぬこの結び目と縛り方はいったいなんなのだ。堅すぎてさっきからどんなに引いても緩みそうにないぞ」
「ゴルディアスの結び目だよ。名前ぐらいは知っているだろう」
「アレキサンダー大王の伝説に出る、アレか。なるほど確かに、捕虜を縛るには絶好の物だろうが、この日ノ本の巫女が使っていいものとは到底思えぬぞ。この背教者め」
「何言ってるのさ。ボクら〈社務所〉は廃仏毀釈を隠れ蓑と滋養にして結成された退魔の組織だよ。異国の魔術だろうが伝説だろうが、なんでも使うし、使いこなす。キミたちみたいに仏教だけで頑張るなんていう信念はないんだ」
「―――仏法の思想失くして報国などできるものか」
「ルーズベルトを呪殺するよりは確実だったと思うけど」
「……ぐっ」
第二次世界大戦時に、仏凶徒たちはアメリカ大統領の呪殺を軍と共同で行ってみごとに成功させたという経験がある。
ただし、そのあとを襲ったトルーマンがその事実を知り、前任者の報復として原爆を一発落とす決断をしたのは彼らにとって苦い記憶であった。
藪蛇となったのである。
もう一発は別の用途で使われたとはいえ、結果として国土を放射能で穢したものとして、彼らはさらなる関東進出を禁じられることになった。
これが仏凶徒と〈八倵衆〉が関東に関われない理由の一つである。
「……米国などはどうでもいい。拙僧らはもはや神物帰遷さえ防げればいいのだ。あれこそは、この神国の開闢以来最大の危機であるからな」
「それで、東京に地震を引き起こそうとしたのなら迷惑極まりないね。ボクらとしては余程のことがないかぎり、神と争いについては内密でやりたいというのにさ。いらない混乱を起こして、みんなの平和を乱したくない」
「ふん。あれとて、こちらには正しい狙いがあった。うぬらが邪魔だてさえしなければ……」
「この地下にある〈ン・カイ〉にいる化け物を目覚めさせられたってかい?」
一遍僧人は固く口を閉ざした。
これ以上は情報を敵に与えるだけだからだ。
もうかなりの部分を吐かされていたとしても、まだ要諦は漏らしていない。
彼とて〈八倵衆〉の一員なのである。
「新宿の地下と繋がっている暗黒の世界〈ン・カイ〉。そこで怠惰な眠りを貪っている邪神。まさか、そんなものに直接地震をぶつけて起こそうとしていたなんて想像もしていなかったよ」
「……ローラー作戦としての東京大空襲でさえ目覚めなかった化け物だ。あれほどの爆弾の雨あられで一切の反応さえしなかったのだから、米軍ですら東京にはいないものだと断定したらしい。それで、もう一つの伝承が残る長崎を試してみたがあちらでも外れだった。プルトニウム型よりも効果のありそうな、わざわざナチスから接収したウラン型を使ったというのにな。どうも放射能は奴の好物らしいぞ」
「まったく他人の国でなにをしているんだか。オクラハマから〈クン・ヤン〉に入り込めないから、日本にある〈ン・カイ〉を狙ったらしいね。ナチスといいユダヤといい、世界中のオカルティストたちはろくなことをしない。まあ、ボクが聞いたところによると東日本大震災のときの地震とわずかに漏れた放射能で〈ン・カイ〉から神様が這いずってきたらしいから決して的外れではないのか」
暗闇の坂を下りるのに飽きてきた二人は、敵同士であり、しかもタイマンにおける勝者と敗者の関係であるにも関わらず会話をすることで気を紛らわせようとしていた。
事実、このつるつるの坂を一時間ばかり下っている。
過程と手段こそ水と油だが、どちらも狙いは同じなので多少の情報交換は構わないと割り切っているということもあった。
それに、どのみち二人はこの先に待つもの相手には呉越同舟を貫かねばならないのだから。
「下から掘りあげた坂なんて勝手がわからないぞ。手すりもないしさ」
「さっきから小娘は文句ばかりだな。どんなものでも神仏自らが作り上げた道だ。偉大なる存在の力に敬意を持ちつつ進め」
「それはそうだけどね。このツルツルしているのが涎の固まった跡だと思うと、どれだけ大食漢なのか想像もつかないのがホント嫌なんだよ」
しばらくしてようやく二人が辿り着いたのは、幾つものアーチが聳え立つ広場で足音と影だけが光の反射で先に進む。
坂の通路よりはどこからか差し込む光のせいで見やすい。
ただし、壁も床も天井もどことなく歪んでいて、その意味ではまるで鍾乳洞のようであった。
「なるほどね。このサイズでないと動けないのか。となると、さっきまでの道は伸ばした舌の幅かな」
或子がぽつりと呟くと、一遍僧人も頷いた。
彼女の認識に間違いはないということだ。
これだけの巨大な空間がなければ動けず、人が二人進めるだけの道を通る舌を持つものとは……
「じゃあ、行こうか。地の邪神―――ツァトゥグァのもとへ。まだ、話し合いができる相手だというたゆうの義祖母ちゃまのいうことを信じてね」
奇妙な敵同士の男女は躊躇うことなくさらに深淵へと歩き始めた……
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