第111話「妖怪〈のっぺらぼう〉」



 妖怪〈のっぺらぼう〉。


 それは私がラフカディオ・ハーンの著作で親しんで来た日本の妖怪の一つだ。

 言われてみれば、自分がさっき巻き込まれていた怪事は、その中の一篇に記されていたものと瓜二つである。

「むじな」というお話の中の出来事だが、私の記憶が正しければ赤坂の紀伊国坂での出来事だったはず。

 渋谷のD坂とは坂以外の共通点はない。

 しかし、私たち目掛けて五体も近寄ってくるのは異様だった。

 私の故郷には今だに妖精という幽界を棲家とする人外の存在がいるが、日本にもこのような連中が巣食っているとは思わなかった。

 まあ、私も言えた義理ではないのだが。

 声にならない呻きを発しながら、顔のない人型の化け物がやってくる。

 私は後ずさりした。

 背中がごつんと堅いものにぶつかる。

 電信柱であった。

 さらに後方にはブロック塀がある。

 もう逃げることはできない。

 このままいけば間違いなくあの化け物たちの魔の手にかかってしまう。


「あれ? あのー、てんちゃんの話を聞いていなかったのかな? それ以上、近づいてくると痛い目を見るんですよー」


 だが、私を庇うように前に立った彼女は、まるで道端の乱暴な野良猫に話しかけるようにのんびりとしたものだった。

 とはいえ、この小柄な少女があんな化け物相手に何かができるとはとても思えない。

 私は彼女の手を引いて、なんとか逃げ出そうと考えたが、その前に少女は進みだしてしまった。

 晴れた日に公園を散歩するように軽やかな足取りで。


「しかたないですねー。―――てんちゃんはスーパー或子先輩たちと違って、手加減してあげられないんですよー」


〈のっぺらぼう〉の一体が手を伸ばした。

 身長でいえば180センチを超えている大柄な肉体は、150センチほどの少女とは頭ふたつほど差がある。

 少女の白衣の襟を掴んだ。

 捕まってしまった。

 と思った瞬間、〈のっぺらぼう〉の上体が沈んだ。

 自分から下げたのではなく、下げさせられたようだった。

 少女が化け物の手をとり、逆手に捻ると、腋に挟み込んだまま地面に押し倒したのだ。

 まさに早業だった。

 サイズの差は歴然としているのに、あっという間の出来事である。

 

「ジュードー!? アイキドー!?」


 わたしが思いついた、今の魔法を言い表せる単語はそれだけだった。

 柔よく剛を制す。

 その理想の神髄を見せつけられただけなのかもしれない。

 日本の誇る、人を傷つけないための活殺格闘技。

 それだと。

 しかし―――


 バキッ


 嫌な音がした。


『ビキィィィィィ!!』


 転がされた〈のっぺらぼう〉が声にならない叫びをあげる。

 ありえない方向に曲がった腕を押さえて悶絶していた。

 折られたのだ。

 誰でもない、あの少女に。

 いともたやすく、しかも間髪入れずに。


「次もいきますよー」


 少女は〈のっぺらぼう〉の腕の骨をへし折ったことになんの罪悪感を持っていないようだった。

 それどころか、さらに加速して他の四体へと肉薄する。

 翻る赤いミニスカート状の緋袴がまるで血涙のようであった。

 一体の片足を、沈み込んで抱え込んだ。

 俗にいうタックルのようだ。

 だが、私の故郷のラグビーのものというよりは、もっとスマートで潜り込む形の深いタックルである。

 片足をとられ、けんけんをする〈のっぺらぼう〉。

 そのまま巫女の少女が身体を変化させる。

 足をとった状態でくるりと横に捌いたのだ。

 同時に残った軸足を払い、自分はブリッジをしながらまたも地面に叩き付ける。

 ゴキリとまた背筋の震える音がした。

 骨が折れたときのものではなく、股関節を脱臼させられた音なのだろう。

 この〈のっぺらぼう〉も悶絶しつつ、動かなくなる。

 さすがの化け物たちも自分たちに迫っている脅威に気づいた。

 巫女の少女が並大抵の、否―――それどころか最悪の敵である可能性に辿り着いたのだ。

 妖怪を恐れるどころか、むしろ積極的に狩りに来る―――壊しにくる破壊者デストロイヤーであると。

 恐ろしい顔無しの化け物のさらに上を行く、恐怖の支配者に対して、大振りだが腰の乗ったパンチが放たれた。

 まともにあたれば、私でもKOされるような力強さだ。

 風を切るという形容にふさわしい。

 だが、そんな大振りは少女にとってはむしろ大好物だったのかもしれない。

 パンチを抱え込むと、なんとそのまま飛びついて、腕をそのまま反対側に極める飛びつき腕十字のような軽快な動き。

 しかし、そこで止まらない。

 彼女は回転した右足に力を込めて、〈のっぺらぼう〉の顔面を蹴りあげたのだ。

 後ろに態勢を崩した〈のっぺらぼう〉が背中から倒れこむと、勢いを利用して十字に極めていた肘の関節を


『―――っっ!!!』


 あまりのことに、残った〈のっぺらぼう〉たちからも怯えのようなものが感じられ始めた。

 何事もなかったかのように、ニコニコと笑顔で立ちあがる巫女の姿には、助けてもらっているはずの私でさえも戦慄を覚えるほどなのだから。

 そして、ようやく私は悟った。

 彼女が使っている技は、柔道でも合気道でもない。

 おそらくはコマンドサンボだ。

 かつてのロシア、旧ソビエト連邦で編み出された軍隊のための格闘技術。

 しかも、彼女の場合はそれをさらに何段階もレベルアップさせて昇華させた、異常ともいえる実戦的な技なのだ。

 彼女が一切〈のっぺらぼう〉を恐れなかった理由がわかる。

 あれだけの力をもっていればたかが妖怪など恐れるに足らない相手なのだろう。

 問題は、どうしてあんなミドルティーンの女の子、しかも巫女がこんなにも歴戦の闘士のようにバカ強いのか、ということだ。

 なんだ、これは。

 日本のアニメか?

 魔法少女とか、セーラー戦士とか、その類なのか?

 私の残念な頭では、まったくもって現実に理解が追いつかない。


「さて、もうこないみたいですねー。良かった良かった。てんちゃんもさすがにこれ以上の傷害致傷は避けたいところですしー」


 自分が傷害致傷犯だということに気がついているらしい。

 妖怪が刑法の客体に含まれるのか、という論点はあるだろうとしても。


「き、君はいったい……」

「んー、てんちゃんですか? 私は、熊埜御堂てん、ですよー。関東鎮護のための〈社務所〉に奉職してる退魔巫女なんですね」

「退魔巫女?」

「はい、坂東一の霊戦闘能力者ですよー」


 とりあえず、この子たちに普通とか、常識があてはまらないということはわかった。

 

「だが、どうしても私を助けてくれるんだ。さっき、仏凶徒からも助けるということを言っていたが……」

「えっと、倫敦のディオゲネス・クラブから、あなたの捜索と保護、最後に引渡しを要請されているんですよー。どうも、あっちではあなたが必要みたいですねー。透明人間が必要なんて、どんな事情があるんでしょうかね?」


 私は全身が硬直化するのを感じた。

 この娘は私を故郷の機関に引き渡すつもりなのだ。

 ディオゲネス・クラブ。

 あの悪名高き魔導機関のもとへ。


「断る!」

「……どうしてですかー? えっとグリフィンさんはもう来日して十五年ですよねー。そろそろご実家に戻られても問題はないと思いますよー。てんちゃんなんか、お母さんのご飯がないと二日と生きられない自信があるぐらいなんですよー。実家大好き!」

「君に説明する義務はない。助けてくれたのは感謝するが、それとこれとは話は別だ」

「―――お母さんのご飯が口に合わないんですね。わかります。話に聞いたところによると、イギリスはご飯が美味しくないみたいですからねー」


 誰もそんなことは言っていない。

 母の食事が口に合わないからと十五年も家出する彷徨えるオランダ人はどこにもいないだろう。


「君に要請した連中には私は死んだと伝えてくれ。グリフィン家の人間として、もうディオゲネス・クラブのために働く気はない!」

「でも、それだと、てんちゃんから見習いの蔑称がとれないんですよー。せっかく、スーパー或子先輩たちが海水浴でいないときに回ってきた案件なんですから、ここで手柄を立てないとー」

「だから、君の事情は知らないし、私とは無関係だ」

「そんなこと言わないでくださいよー。てんちゃんの昇進のために犠牲になってください―」


 な、なんて勝手な女の子なんだ。

 自分の昇進のために身を捧げろというのか。

 鬼か、この娘!


「ダメなものはダメだ!」

「では、仕方ないですねー」


 泣き落としが通じないと見たのか、彼女はゴソゴソと背負ったリュックサックの中を漁り始めた。

 そこから、何かを取り出そうとしている。

 この膠着状態(私にとってというよりも彼女にとってだが)から抜け出すための何かを。

 もっとも、それは私にとっても同様でしかもチャンスだった。


「あっ、逃げた!」


 私は回れ右をすると、脱兎のごとく逃げ出した。

 すでに私たちを取り囲んでいた〈のっぺらぼう〉は路地の隅でぶるぶると震えているし、逃げるための隙間は十分に空いていたからだ。

 今ならば逃げられる。

 勢いよく走った。

 その際、私は覚悟を決めて、帽子とコート、パンツ、そして下着の類いもすべて走りながら脱ぎ捨てる。

 顔を隠していた包帯も解いた。

 一糸まとわぬ全裸になった私は夜の渋谷を駆け抜けた。

 透明人間である私が全裸になったのならば、誰にも見つけることはできない。

 あの退魔巫女を名乗る熊埜御堂てんの追跡を逃れるためにはそれしかない。

 

 私は二度と故郷に帰るつもりはないのだ。


 透明人間を利用する魔術師たちの飼い犬に戻るのはお断りだ。



 

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