第112話「透明人間の愉悦」
我が家系に透明人間が産まれるようになったのは、随分と昔からのことだ。
もともとはただの人間の一族だった。
だが、ある時にサセックスの暗い森に潜んでいた妖精の王によって、子々孫々まで透明になる呪いを受けたのだという。
なぜ、そんな目に合わせられたかは私も知らない。
きっと一族の最長老などは知っていると思うが、小僧っ子の私に伝えられるものではないのだ。
この呪いのせいとどうかはわからないが、私たちの身体にはやや妖精的な特徴が生じていることから、もしかしたら妖精とご先祖とが姦通してできた家系なのかもしれない。
そして、この呪いは薄まることなく子孫たちに受け継がれてきた。
だから、グリフィン家の人間は、私同様の透明人間としての生を送ることになるのである。
ほとんどの場合、産まれてから数年たって徐々に透明化が進んでいき、成人に達するまでに完全に誰の目にも見えなくなるのが通常であった。
私のように産まれた時から、完全な透明状態というのはあまり例がないそうだ。
とはいえ、透明人間の生育については十分すぎるほどのノウハウを持つグリフィス家にとっては、透き通った赤ん坊を育てることは困難ではなかったようである。
私も、物心ついて、ある程度世の中というものが理解できるまでは、自分の体質の異常性について認識せずに生きてきた。
グリフィス家の家業についても。
透明人間というものがその特性をもっとも活かせる職業といえば、限られている。
誰にも見えないということは、誰にも気づかれないということだ。
誰にも気づかれずにできて、最も需要がある職業といえば、それは一つだ。
―――
権力者や魔導師に大金で雇われて、どんな見張りにも気づかれることなく目標を仕留められる、透明人間にとっての天職であった。
私は自分が一般の子供と違うことを知ってからというもの、父や兄たちに指導されて、暗殺のための技術を磨いた。
近接格闘術から、各種暗器の使い方、そして剣をはじめとする銃器・武器の振るい方までを身体に沁みつくまで延々と訓練してきたのだ。
おかげで成人に達する頃には、私はどんな人間さえも殺せるほどの知識と技術の塊になった。
百年ほど前にH・G・ウェルズという作家が、私のご先祖さまから聞きだした話を元に書いた作品では、ジャック・グリフィン博士は狂気の犯罪者として描かれていた。
透明になる原因も家系的なものではなく、科学的な原因があるものとして謎の薬を用意している。
SF作家である彼にとって、妖精の呪いなどということは絵空事に過ぎなかったのだろうか。
むしろ、今考えると彼の説の方がよっぽど荒唐無稽なのだが。
ウェルズにとってはグリフィン家の家業は相当乱暴なものに思われたらしく、おかげで透明人間は心の捩れた凶暴なものというイメージがついてしまう結果になる。
とはいえ、私の父も兄も、小説のイメージと同等に歪んだ考えと凶暴な心の持ち主でもあり、それほどのズレはないような気はするが。
ただ、私はどうも気が弱く、臆病で、しかも血を怖がる性格だった。
だから、最初の仕事を命じられたとき―――逃げた。
ある魔導師を始末するように命じられた私は、用意された飛行機のチケットを別の便のものとすり替えて、そのまま逃亡したのだ。
皮肉なことに、暗殺者として培ったすべてが私の逃亡を手助けしてくれた。
追手に見つかったとしても、顔を隠す包帯を解いてしまえば見つかることはない。
私は無我夢中で世界中を逃げ回り、ついに十五年前この日本へとたどり着いたのだ。
それから、日本でも最も人間の多い東京の片隅に潜伏したのである。
外国人が全身包帯姿で生きていくことは大変ではあったが、暗殺者として生きていくことに比べれば孤独な生活も楽園のようなものだった。
何よりも、私にはこの国に来てから、替えがたい喜びさえも手に入れたのである。
「ワハハハハハハ!」
あの恐ろしい体験を与えた〈のっぺらぼう〉から逃れ、私を連れ戻そうとする妖怪よりも更に怖ろしい巫女の少女を撒くために、透明人間としての本当の姿に戻った私は歓喜の声を上げた。
最高の気分だった。
渋谷の街には深夜でも大勢の人間たちがいる。
大通りに行けば確実にすれ違う。
その脇を私は哄笑をあげて走り回った。
道行く人々には私の笑いは聞こえているだろう。
しかし、姿は見えない。
嗤う私は不可視なのだ。
それがサイコーだった。
透明人間として産まれたのならば、誰にも見られずに暗殺稼業をすることよりも、こうやって人ごみの中で弾ける方が楽しいじゃないか。
闇に紛れて女性を襲ったりすることもできるけれど、そんなことをして何が楽しいだろうか。
公的な場で公然と裸になり、隠すべきものを曝け出す、この衝動に比べたら、強姦なんてくだらないことである。
私にとって全裸でのオープンスタイルこそ、透明人間として生まれてきたことの天命なのだ。
グリフィン家の先祖がこの力を手に入れたのは、暗殺みたいな野暮なことのためなんかではなく、この一瞬を謳歌するためだったに違いない。
いや、それしかありえない。
だって、こんなにもエクスタシーを感じるのだから。
私は冷めやらぬ喜びを爆発させながら、センター街を抜けていく。
このまま行くと、例の〈のっぺらぼう〉に遭遇したD坂に戻ってしまうかもしれない。
さすがに足が止まった。
いかに誰の目にも止まらないといっても、あの恐ろしい妖怪に捕まるのは願い下げだ。
この近代の日本にまだあんな怪物がいるなんて、とても信じられない。
しかも、さっきの巫女の少女、確か名前は―――熊埜御堂てんと言ったか。
彼女が言うことが正しければまた別の組織が、私が透明人間であることを知り狙っているらしいということだ。
真偽はさておき、私のことが日本人に知られてしまったのは事実のようである。
「……また逃げるか」
家族に格闘術を叩きこまれた身からすると、あの少女もまた恐ろしい。
例え妖怪とはいえ、躊躇なく関節を破壊しにいったところが、だ。
ああいう風にいささかの迷いもみせずに強力な技を極めて、簡単に折りにいけるものは滅多にいない。
巫女の姿をしていたものの、あれは間違いなく闘士だ。
あんなものに目をつけられるのは、なんて不幸なのだろう。
日本の東京ほど安心な街はないというのに、ここから去らねばならないというのが勿体なさ過ぎる。
だが、あの巫女は……
人々が行き交う十字路の中央で腕組みをしながら、私は天を見上げた。
この幸せな人生を捨てて、また逃げ出そう。
でなければ、イギリスに連れ戻され、暗殺家業に帰るか、二度と外に出られないように監禁されるか。
どのみち私に待っているものは地獄のような運命だけだ。
「よし、逃げよう」
私が腰に手を当てて、逃げる方針を完全に決意した時―――
「どこにも逃がしませんよー。あなたをとっ捕まえて、てんちゃんは見習いを卒業するんですからねー」
と、すぐ後ろであのミニスカートの巫女姿の、熊埜御堂てんが腕組みをしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます