第536話「秘技〈風林火山〉」



〈サトリ〉。


 その名を持つ心を読む妖怪が関東近辺に住んでいるということは快川の知識にもあった。

 人の考えている思考を読み取って、時として討ち取ろうとする人間の心を利用して撃退すらもしてしまう強力な妖魅だ。

 だが、快川は〈サトリ〉が人間に手を貸すなどという話は聞いたこともなかった。

 しかも、退魔組織である〈社務所〉の指示に従って、バーでの会話中の彼の心を読んで協力するなど、考えられないことである。

 妖怪からしてみれば、媛巫女など自分たちを狩りたてる敵以外のなにものでもないはずだ。

 それが率先して手助けすることなどありえない。


「……馬鹿な」


 彼ら仏凶徒は、闇に棲まうものどもがどんな存在であったとしても決して赦さぬ性分を持つ。

 例え懐に入った窮鳥であったとしても、妖魅であるのならば確実に抹殺するのだ。

〈社務所〉のように人間にとって害をなすかどうかという判断基準をあてはめることすらしない。

 妖・即・滅なのである。

 だから、〈社務所〉の重鎮・御所守たゆうが〈サトリ〉の力を借りたことが想像の埒外であった。

 あまりにも在り様が違う。


「おまえ様方にはわからないでしょうね。おまえ様方にとってもっとも大切なのは御仏の道でありましょうが、わたくしどもにはそれ以上に大切なものがあります。そのためにはどんな手段であろうと選びますし、選ばないという選択肢はないのですよ」

「なんだと……」

「ただし、例外もありますよ。罪なき衆生を贄に捧げて自分たちの主義主張を通そうとするなど言語道断。護るべき民草を護れずして、何が仏道、何が神道。ゆえにわたくしどもはあなた様方を完全否定します」


 たゆうは〈引き寄せアポーツ〉した六角棒を道路にかざし、ここから先は通さないとばかりに武蔵坊のごとく立ち塞がる。

 快川は前に行かねばならないときっと睨みつける。

 七十を越えた老獪さがなくなり、焦りが前面に押し出されてきていた。

 当初の予定では、他の三人の〈八倵衆〉の探索によって〈社務所〉の注意を引いているうちに、ほとんど警備のない都庁に侵入して、目的を果たすつもりであったのに、予想外の怪物を敵に回してしまった。

 敵陣ということもあり、他の〈八倵衆〉からの手助けは期待できない。


「フォーマルハウトの火神を喚びだすには血が要るのだ。今更、このワシを止められぬぞ」

「わたくしどもがそれを許すとお思いか」

「通してもらうぞ」


 快川は腰を落とすと、全身に〈気〉を回し始めた。

 他の〈八倵衆〉同様に彼にも秘技といっていい技がある。

〈風林火山〉だった。

 かつて恵林寺で多くの僧侶と共に焼き殺された初代が、武田信玄に揮毫した故事に倣ってつけられた技であった。

 陰陽道でいう五行ではなく、風と木と火と土を身に宿し、あらゆる呪力と筋力を増すことができるのである。

 それならば目の前の化け物めいた巫女を蹴散らすことができるだろう。


「〈風林火山〉!!」


 風を撒いて魔人の老僧は駆けた。

 この秘術の下では老境の域に達したものでさえ、飛燕のごとく動き回れる。

 ついさっきたゆうを襲ったときの数倍の速度であった。

 だが、風程度では決して飛び越せぬものがある。

 御所守たゆうは嵐さえ遮る万里の長城であったからだ。

 

「風は五悪でいう木。木を相克するのは土!!」


 すると、一瞬にしてアスファルトに覆われた大地が隆起し、五メートル四方の壁となる。

 快川は壁にぶつかる寸前に方向を転換し、土の壁目掛けて斜めに跳びこむ。

〈風林火山〉のうち、山の地を纏って今度は泥に溶け込むように壁をすり抜けようとした。

 大地に属するものであれば自由自在に泳ぐことができるのだ。

 幅一メートルの土壁を浸透して、たゆうに握った独鈷杵を突き刺そうとする。

 地面のみならず、今でも日本各地にある土塀でさえ

 だが、勢いが殺されたおかけで速度がやや落とされてしまえば、体術にも優れた巫女にとっては飛んでいる七面鳥同然である。

 突きだされた、相撲の源流である捔力すまいとらしむの掌底が快川の顔面に叩き付けられた。

 

「土を相生するのは水!!」


 遅れて壁を貫いた六角棒を中心に、壁に黒い染みが広がっていく。

 それは水であった。

 どこからともなく湧き上がった水が土の壁を湿らせていき、ほんの一瞬で脆くなる。

 泥濘となった壁が崩れ落ちるとともに快川も地面に這いつくばる。

〈風林火山〉で土を纏っていた彼の現在の性質は「土」そのもの。

 水が混じれば泥となり動きが鈍る。

 陰陽五行を自在に操り、敵を処する御所守たゆうの本気であった。

 

「ち、相性が悪いかよ!?」


 快川はたゆうの術が陰陽五行に基づくものであることに気づくと、それが〈風林火山〉と相性が悪すぎるという事実を理解した。

 他の〈八倵衆〉のものと違って様々な応用が聞く秘技ではあるが、逆にいえば同系統の術をぶつけられると極端に弱い。

 しかも、この敵は体術の面でも無双に近い強さを誇る。

 長引けば不利なのは快川だった。


「仕方あるまい」


 快川はやや距離をとると、掌を掲げ、そしてそこに火の玉を召喚する。

 妖魅の類いでいう火の玉ではなく、〈瞋恚しんいの炎〉という、人が克服せねばならない苦しみの根源であり、可及的取り払うべき煩悩である『三毒』の怒りを具現化させたものである。

 まともな僧侶ならば決して玩んだりはしない、その〈瞋恚しんいの炎〉を快川は〈風林火山〉の力でもって傀儡の様に操ることができる。


「〈瞋恚しんいの炎〉とは、また珍しいものを」

「うぬらほどではないぞ、坂東の巫女よ」

「―――させませぬぞ」

「〈サトリ〉がワシの考えを呼んだか。だが、もう遅いぞ」


 次の瞬間、快川は手にした火の玉を口の中に押し込んだ。


「フングルイ ムグルウナフ クトゥグア ホマルハウト ウガア=グアア ナフル タグン! イア! クトゥグア!!」


 快川は焼けただれるのどの痛みにのたうち回りたくなるのを耐えながら、かすれかすれにしか聞こえない呪詛を唱える。

 双頭を持つ怪物じみた都庁を見上げる。

 本来ならば、あの二つの搭の先で篝火を焚くことで呼び出す手配だった火神かしんだ。

 しかも、供物として多くの人間の呪いとそれを受けた候補者たちの血を捧げる予定であったのに。


(ワシ一人だけか)


 それでも満足だった。

 呑み込んだ〈瞋恚しんいの炎はほんの数秒で内臓全てを燃やし尽くし、筋肉と脂肪さえ炭にするだろう。

 初代・快川と同様に。

 

「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火もまた涼し!!」


 焼け死ぬ寸前でありながらいい気分だった。

 惜しむらくはこれから現われるであろう異世界の火神が起こす、衆生解立の宴を目撃することが叶わないことだけだ。

 

 火よ、火炎よ、火焔よ、業火よ


 多くの民に悟りを与えたまえ。

 救いを与えたまえ。


 御仏の慈悲を与えたまえ……


 これよりやってくる異世界の邪神すら、今の快川にとっては仏の冠者以外のなにものでもなかったのである。



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