第537話「取り引き」
快川和尚が完全に消し炭となるまで一分とかからなかった。
人体を構成する水分は50~70%であるからただの高温では全身が焼失することなどはない。
だが、道路に黒ずんで横たわる元廃棄僧侶の遺骸は、ほとんど黒炭にまでなっていた。
どれだけの熱が彼を焼いたのだろうか。
しかし、そんな些事を御所守たゆうは気にしている余裕はなかった。
「篝火にしては小さすぎますが、よほど美味しそうな味に見えたのでしょうかね。……こちらに近づいています」
まだ薄暗い新宿の空。
南の方にぽつんと光る、みなみのうお座にある恒星があった。
全天に二十一個ある一等星の一つである。
その恒星の瞬く空間の一部がやや赤く染まっていた。
まるで黒い紙の裏側から蝋燭で火を当てているかのように。
「高熱で空間の境を焼いてこちらに来ようとしているのですか、火神よ」
余人には視えねど、〈菩薩夜叉〉御所守たゆうには当然見える。
「あの様子では朝になればお天道様が二つできることになってしまいますね。それでこの都市はンガイのように丸焼け。さて、どうしましょうか」
時間と空間を超越してやってくる火の邪神といえど、快川が燃えたことによる灯火の光だけを当てにしてやってくるにはまだ時間がかかる。
その間に、あの神を追い払う術を用意しなければ。
「……では、取り引きと行きませんか、お嬢さん」
「わたくしにはそのような世辞は通じませんよ」
振り向くと、黒い肌をした背の高い外国人がいた。
いや、日本人のようにも見え、アラブ人のようにも思える。
国籍や民族そのものが不詳の男性であった。
「わたしに驚きもしませんね」
「一度ばかりお顔を拝見したことがありますので」
「おや、それは知らなかった」
黒い男は首を振った。
「私に知らないことがあるとは。いつのことでしょうか?」
「おまえ様とそのご主人様たちがこの国を水浸しにしようとした日のことですよ。そのあと、わたくしの大事な娘と孫娘たちもだいぶ死んでしまいました。あの日の地獄のことをわたくしは生涯忘れないでしょう」
「おやおや、あの日は忙しかったせいでそんな出会いがあったことなど知りもしませんでした」
心の底から気の毒だとかんじているような殊勝さで黒い男は目を伏せた。
だが、全身の雰囲気はそんな空気を一切醸し出さない。
そんな感情はまったく持っていないことが明白であった。
この黒い男は人間らしい心情など決して持ち合わせてはいないのだ。
「で、取引とはどういうものですか? 黒いお人」
「こちらはアイツを押しとどめる。いくらなんでも、私の傍にあんなゲスなものを近づけたくはないのでね」
「神々のご都合をニンゲンに押し付けて欲しくはないのですが……まあ仕方なしとしましょう。で、おまえ様が要求するものは何なのですか?」
すると、黒い男はにんまりと笑い、
「この、副都心が崩壊するのを間一髪で押しとどめるために、我々が要求するもの。それがどれほど価値のあるものか、貴女方には到底理解できないでしょう。我々の価値観というものを貴方方がどれほど研究していたとしてもそれは複雑怪奇なのですから」
「―――こちらが飲むしかないことをわかっていて、嬲りに来ますか。早くおっしゃいな。こちらとて心の準備というものは必要なのですよ」
「では……」
そして、黒い男が挙げた条件について、御所守たゆうはただ一言、
「本人が良しするのならば認めましょう」
と承認した。
それがどのような悲劇を撒き散らすのか理解したうえで、直近に迫った地獄を回避することを選んだのである。
少なくとも相手方が契約を違える恐れはない。
なぜなら、そんなことをする必要もない相手であるからだ。
神が地面を這いずる蟻相手に虚言を吐いてどうするというのか。
だから、どんな理不尽な契約であったとしても履行だけは絶対に裏切らない相手だといえた。
「物分かりがよくて助かる。さすがに
そういうと、黒い男は踵を返して、たゆうとは逆方向に消えていった。
契約を違えるはずはないとわかっていたとしても、それは不気味な行動としか思えなかった。
「―――這いよる混沌。あんな、おぞましきものに頼みごとをせねばならぬというのは心外ですが……」
たゆうは誰にも聞こえぬように呟いた。
「まだ、秘め事は表には出さぬものですよ。異形の神々」
ただ、その顔には言い知れぬ悔恨が宿っていた。
「―――なんともはや、あの少年に辛い坂道を登らせねばならなくなるとは……。或子よ、おまえ様の筋斗雲はどれほど数奇な星の下に産まれたのかね」
南の空が一瞬だけ赤く翳る。
のちに、2016年の都知事選挙を語るときに噂された「赤い夜明け」はこの光景を目撃した誰かのTwitterによるものであった。
そして、誰も知らない。
この南の夜明けが、一人の少年の生き様を変えてしまうものであったということを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます