第538話「音子リベンジ」
神宮女音子は孔雀明王の化身との戦いから離脱すると、そのまま上智大学の敷地内を見渡した。
イグナチオ教会の十字架がすぐ見える場所に敵が潜んでいるはずだと。
その片隅、新講堂の方で手を振るものがいた。
見覚えがある。
確か、〈社務所〉と提携している霧隠忍群の若長だ。
升麻京一のクラスメートでもあるはず。
迷わずそちらに向かった。
彼女のために人質に取られている二人の禰宜はもともと霧隠の忍びであるし、その拉致となったら彼らが動きだすのは当然だ。
御子内或子とともに派手に暴れ回ったのは、敵の注意を逸らし、自分たちに集中させるためでもある。
物心つく頃から〈社務所〉に属し、媛巫女となるべくして育てられてきた音子にとって、混乱時に組織がどのように動くかなどは手にとるようにわかる。
死霊の使い魔に監視されていて、なんの情報も送れなかった彼女は、逆に何もしないことで異常を伝え、陥った危機を連絡した。
完成された組織である〈社務所〉だからこそ危機管理能力が発動し、急速に〈八倵衆〉の陰謀は食い止められようとしていた。
「こちらです、神宮女の巫女!」
「シィ. あたしが知るべき緊急の情報は?」
「猫耳の巫女が勝利。人質となっていた俺の部下も救出済み」
「どうやって? 死霊みたいなのが見張っていたはずじゃないの」
「それは刹彌の巫女が退治してくれたそうです」
「……やるね」
ここに至るまで一度も顔を出さなかったのは、そういうことか。
音子は同期の中で最も曲者といっていい少女の顔を思い浮かべた。
面倒くさがりの癖にこういう時には率先して動いてくれる頼りになる相手だった。
基本的にセクハラしかしないので人気はないが。
「天海は?」
「この新講堂の奥に、地下の資料室があります。駐車場とも繋がっていますから、そちらは俺たちが止めます。ただ、情報通りだと天海はアルラウネを所持している模様ですが、俺たちでは対抗できません」
「シィ. あとはあたしがやるから」
そういうと、開錠されていた扉を抜けて大学の施設の中に入る。
一瞬だけ見せられた図面は頭に入っている。
月明かりどころか、雷鳴の閃光の中でちらりと見ただけの複雑な設計図であっても完全にインプットできるというのは、闇夜に蠢く妖魅と戦うことが多い退魔巫女にとって基本の修練であった。
音は一切立たない。
すでに完全無音の闘法〈大威徳音奏念術〉を自在に操る闘士にまで達している音子にとって、通常の動きそのものに効果を及ぼすことすら簡単なことであるからだ。
そして、〈気〉による生命の探索だけでなくかすかな震動からでも大量の情報を入手できるようになっていた。
奇しくも宿敵〈八倵衆〉の一休僧人と似た力を得ていたのである。
音子は地下へ続く階段を降りる。
地下というよりも、地下に設えられた駐車場への長い通路、そして他のボイラー室などのための一角だ。
おそらく学生は足を踏み入れたこともないだろう。
ブレイカーが落ちているのか電灯は点いておらず、何も見えない。
しかし、音子の勘と力は告げていた。
その三十メートルほど通路の先にいる敵の存在を。
漆黒の闇の奥に潜む、黒衣の廃棄僧侶を。
「それ以上、近づけば死ぬ」
天海の声であった。
彼は自らの窮地を理解していた。
呪法が完成するまでの護衛であるはずの二人の〈八倵衆〉は戻らず、一度は鹵獲したはずの敵の巫女が再び牙を剥いている。
つまり、言えることは一つ。
(万事休すか)
実のところ、彼は快川和尚が天海の呪法に乗っかることで新宿大火を目論んでいたことを知らない。
本来、天海と一休の二人だけで行おうとしていたのは、都知事選にでた候補を呪詛することで首都の行政機能を完全に混乱させ、その隙に乗じてとある地域にあるものを解放することだったのである。
それは東京都の管轄にあるものであったが、彼らの真の目的のためにはどれだけ重要なものなのか〈社務所〉ですら気が付いていないものなのだった。
都知事の不在、行政の停滞を狙っていたのはそのためなのだ。
だが、彼らの策は破れようとしていた。
数か月前に一遍と文覚による陰謀と同様に。
(焦りすぎたか……いや、そんなことはない。神物帰遷の刻はすでに迫っておる。今、ここで拙僧らが動かねば、首都の巫女どもなどがこの国と仏法の未来を救えるはずもなし。惜しむらくは、道鏡と西行の二人がもっと手を貸してくれれば……)
〈八倵衆〉の指導者でもある二人の高僧が、彼らの行動を一切手助けしようとしなかった恨み言を口の端に乗せる。
だが、今更であった。
もう後がないのならば、今のこの窮地を乗り越えるしかない。
天海は腹中に納めたアルラウネの様子を確かめる。
彼らが関東進出を目論んだ時に一番最初に取り組んだのが、この外来の妖植物の奪取であった。
アルラウネの持つ〈死を呼ぶ声〉の力を自分の得意とする〈亦説法〉に取り込むことで、人々の潜在意識に呪詛を埋め込み、近代日本では滅多に行えない大呪法をなそうとしたのである。
ただ、アルラウネにはそれ以外にも使い方がある。
元々の致死性のある殺人植物として、だ。
死に対して耐性のある天海はアルラウネの声の効力がない。
ゆえに力を蓄えるために腹中に納め、その力を咽喉を筒とした音波銃のように用いることができる。
「とぱあろっ……」
大きく口を開き息を吸うと間抜けな音が出る。
しかし、気にはならない。
大量に吸い込んだ空気こそが〈死を呼ぶ声〉とともに砲弾となって敵を襲うからだ。
すぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ
身体が風船のように二倍に膨れ上がるまで空気を吸って、次の瞬間、気合いと共にアルラウネを叫ばせる。
ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!
致死性の絶叫が地下の通路を伝わって、こちらにやってこようとする〈社務所〉の媛巫女に襲い掛かる。
だが、本来ならばどんな動植物とて死に至らしめる絶叫は無意味となった。
天海の敗因は、二十四時間ほど前にこのアルラウネの声を受けても死ななかった相手がいることを偶然の結果であると軽く考えていたことにあった。
下落合の廃屋でのアルラウネの絶叫を受けても音子が死ななかった理由を、まともに考えなかったことにある。
そこが武闘派である一休との違いであった。
もし、天海がもう少し好奇心をもって捕らえた巫女のことを勘定に入れていたのならば状況は一変していたかもしれない。
しかし、天は彼に味方しなかった。
「なに!!」
彼の討伐に向かっていたのは、神宮女音子であったからだ。
「〈大威徳音奏念術〉!!」
アルラウネの絶叫をすべて打ち消して、ほんの数歩で天海の懐に飛びこむと、音子は正面からジャンプして両肩に乗る。
そのまま太ももで頭を挟みこみ、頭を振り子の錘のように使って後方に倒れこむ。
流れるように天海の股の間に潜りこむと、勢いを用いて前にくるりと回転させつつ天海の両足を取った。
ウラカン・ラナ・インベルティダ。
日本では、高角度後方回転エビ固めというルチャ・リブレの丸め込み業である。
頭部を叩きつけないのは殺す気がないからだ。
人間相手に「
ただ、それでも音子ほどの使い手にかかれば十分なフィニッシュホールドである。
完全に極められたあとで音子が太ももを捻ると首の骨が軋む音を立てて、激痛のあまり天海は気絶してしまう。
「マイ・ウィン」
音子は小さく呟き、長らくかかった任務が終わったことを自らに告げた。
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