第395話「〈大威徳音奏念術〉」



大威徳音奏念術だいいとくおんきょうねんじゅつ〉。


 幕府の崩壊後、江戸に乗り込んで来た明治の大帝が指名して連れてきた幾つかの家系があった。

 その中には、呪法に優れたもの、闘技に秀でたもの、遁甲を学んだもの、様々な家系があったのだが、中でも大帝が重用したものたちがいた。

 後に〈社務所〉と呼ばれる退魔組織の中核になる家系なのだが、その一つが音子の神宮女家である。

 六大明王の神通力を備えた〈神腕〉を持つ明王殿家とある意味では対になる家系であり、そのために帝都にとって霊的要害である川崎大師の守りを仰せつかったのであった。

 その神宮女家に伝わる呪法が、この〈大威徳音奏念術〉である。


 天皇が即位する時に執り行われる四海統領、山野河海すべてを統治するために行う「金輪の法」―――またの名を〈東寺流輪王灌頂の法〉―――は、すべての天皇に伝えられている呪法であると伝えられていた。

 狐に乗った美しき女人である茶吉尼天を中心にしたこの〈法〉は、天皇が修める呪法の中でも最も強力なものであり、朝敵を調伏するためにも用いられていると広く知られていたものである。

 太平記によれば、後醍醐天皇が自ら護摩壇を築き、憎き鎌倉幕府を呪ったという、まさに歴史の闇の底に眠る「金輪の法」を修するためには、絶対ともいえる静けさが要求された。

 精神集中を妨げるわずかな音すらも邪魔になるからである。

 ゆえに後醍醐天皇は、この「金輪の法」のために楠正成に守られて深山幽谷の庵に閉じこもらねばならなかったと伝えられている。

 逆に考えれば、そこまでの配慮をしなければならないほど極端に使いにくい呪法であるということでもあった。

 しかし、やんごとなき身分である天皇が即位のたびに山奥へと赴くわけにもいかず、京の禁裏に暮らしていても「金輪の法」を修めることができるようにと様々に試行錯誤がなされ、ついには大陸の涯、天竺からもたらされた一つの呪法を重用することで欠点が克服されたのである。

 それが〈大威徳音奏念術〉であり、天皇家に古くから仕える宮女を多く育ててきた忠義篤き家系によって伝承されることになった呪法である。

 神宮女音子は、その呪法を正式に伝授された一族の、紛うことなき姫なのであった。


「オン シュチィリ キャラーロハ ウンケン ソワカ」


 仏法を守護する五大明王にして、西の守護者である大威徳明王の真言であった。

 音奏とは、咽喉から美しいかすかに聞き取れる程度の音色を奏でることであり、念術とはその声に呪力を乗せることを指す。

 音子の美しい唇から朗々と発せられた幽かな声が室内を満たすと、何の前触れもなくすべてが沈黙へと落ちた。

 衣擦れどころか、壁一枚隔てただけの渋谷の喧騒すらも消滅したかのごとき、瞬殺無音の世界となる。

 例えるのならば遥かなる深海の奥底。

 マリンスノーの深々たる舞いだけが動く永劫の闇の奥。

 色と欲に塗れた歓楽街のラブホテルの一室とは決して思えないことだろう。

 これを行ったのは音子であり、〈大威徳音奏念術〉の呪法であった。

 音とはすなわちものの響きであり、その羅列である。

〈大威徳音奏念術〉は遍く万物の震動そのものを消し去り、あらゆる音を伝える触媒を無意味にしてしまう呪法なのだ。

 代々天皇が行う〈金輪の法〉を静謐なる場所で修めるために、神宮女の先祖が用いてきた呪法は、震動そのものである妖怪の力をさえ一気に奪い取った。

 さらに言えば呪法の担い手である音子には、妖魅の現在の居場所さえも手に取るように把握できる。

 だから、その場所目掛けて一切の音もたてずに跳びこんだ。

 産まれてすぐに彼女の真の素質に気が付いた神宮女の刀自が名付けた「音子」という名。

 名前の子という漢字は「一と了」の複合であり、一(始め)から了(最後)まで、一生という意味が与えられている。

 ゆえに「音子」という名前には、「生まれてから死ぬまで、一生音を司るものであるように」という意味がこめられているのだ。

 そして、「日」の上に「立つ」音は、空を舞うことさえも意味する。

〈大威徳音奏念術〉を修めているだけでなく、音となって飛翔するという二つの意味の名前を持った退魔巫女の踵が、無機物の中を響き寄る妖魅の真芯を捉えた。


golpearゴルペアール!!」


 命中したと同時に、〈気〉を流し込む。

 それだけで倒せるとは思っていない。

 ゆえに、音子は、自らの全身に流れる血の波紋を音が鳴るまでの超震動に変換して流し込んだ。

〈枕返し〉―――震動そのものの妖魅は、自分と打ち込まれた二つの震えの対衝突によって断末魔の雄叫びすらあげられずに消滅した。


「オレ!!」


 音子がパチンと指を鳴らすと、室内の空気がぼやけ、どこからともなく或子が降ってきた。

 さすがに受け身はとったが、それでも腰を床に強く打ちつけてしまい、らしくない悲鳴を上げる。

 ううう、と鼾のような唸り声を上げつつ、京一も目を覚ました。


「―――もっと優しくやれないのかい、キミは!?」

「助けてあげたんだし、いいじゃん」

「まったく、結果がすべてを覆い隠すなんて勝手なことを思っているんじゃないだろうね」

「ま・さ・か」


 とはいえ、音子としては十分に満足いく結果だった。

 このラブホテルで暴れている〈枕返し〉という妖怪の謎を解き、別の世界に魂ごと連れ去られようとした二人を助け出すことに成功したのだから。

 不満があるとすれば、この程度の妖怪相手に家伝の〈大威徳音奏念術だいいとくおんきょうねんじゅつ〉を聞かせてしまったことだけだ。


「〈枕返し〉に枕を返されると魂が分離するというのは、ミキサーに突っ込まれたみたいな感じなんだということがわかった。これは本当に珍しい発見」


 まだ頭が覚醒していない京一はともかく、或子はすぐに立ち上がった。


「あいたたた。こんな目にあうとは…… まったくよくわからない妖魅の事件だったよ……」

「そうでもない」

「え、なんだって」

「あたしはもう一つの謎を解いた」


 音子はぐっと親指を立ててみた。

 親友の呆けた表情を見て、


(勝ったな)


 と思わず勝利宣言をしてしまうほどに楽しい気分であった。








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