第394話「旧き神宮女の巫女」



 神宮女音子は周辺視野の働きで室内を見渡す。

 それからおもむろに銀の覆面を脱いだ。

 この覆面はルチャドーラとしてのポリシーだったので無理矢理に剥がされでもしない限り、戦いの最中においては絶対に脱ぐことはしない。

 だが、今回に限っては邪魔にしかならないと判断し、ポリシーをかなぐり捨てたのである。

 何故なら、布一枚の感触すら邪魔になりかねない剥き出しの肌感覚が必要だったからだ。

 シューズも脱ぎ捨て素足になり、さらに手袋もやめた。

 ポケットからリボンを取り出し、髪をポニーテールにする。

 普段ならば胸中に鳴らし続けるスカイハイのテーマさえも遮断し、さらに目を閉じた。

 全身の毛穴から滲み出る〈気〉すらも消し去った。

 ここまでやれば刹那の一瞬程度は捉えられるだろう。

 そして、それだけで十分のはずだ。

 音子の読みが間違っていなければ、妖怪〈枕返し〉の正体は……

 根拠は全くない。

 一から十までただの直感でしかなかった。

 しかし、彼女は自分の直感が狂っているとは考えもしない。

 そもそも狂っていては直感ではないのであるから。

 付け加えるのならば、ここでしくじれば最高の親友兼好敵手と惚れた男を喪うことになる。

 決して看過できる結末ではないのだ。


「ここが空なら……」


 音子は飛翔する感覚が好きだ。

 重力からかすかだけ脱出できる一瞬が好きだ。

 彼女は自分を閉じ込める世界を許さない。

 例え四面から無数の楚の歌が聞こえたとしても。


「……!」


 素足の裏に微量の、幽かすぎる震えが走った。

 同時に音子は飛び立つ。

 天井にはいない。

 釣り下がっている電灯に美しい脚を絡ませて、

 一瞥した限りでは変化はなかった。

 だが、彼女の耳はおそらくは野生の生物でしか聴き取れないほどのわずかなうねりを音として捉えていた。


(見破った、〈枕返し〉!)


 音子は目には映らない震動そのものが、指向性のある動きを示して物体を動かしているという怪奇こそが、不可視の妖怪の正体だと見抜いたのだ。

 妖怪図鑑にあるような、小柄な鬼などではなく、誰の目にも止まらない震動がすべての元凶であると。

 寝ている人間の下に潜り込み震動を与えることで枕を返し、人の魂を飛ばす危険な妖怪。

 それこそが、この部屋に巣くう妖魅の真の姿なのだ。

 おそらくは伝承に伝わる〈枕返し〉ではないだろう。

 だからこそ、既存の先入観に縛られて京一を襲った初回の攻撃をみすみす受けてしまった。

 痛恨のミスだ。 

 だからこそ、もうしくじりはしない。

 そして、敵は焦っている。

 もう一つの世界に或子が侵入したことで、均衡がくずれたのだ。

 床から壁を這い上がり、見えない震動が天井にぶら下がった音子に迫る。

 確実に彼女を仕留める気なのだろう。

 だが、震動そのものを遮断できる場所に達しなければ、いつかはやられてしまう。

 どうする、神宮女音子。


「ミョイちゃんちよりも二百倍は旧い神宮女のあたしにぶつかったのが運のつき」


 彼女は仰々しく、そして神々しく宣言した。


「神宮女のやしろに伝わる〈大威徳音奏念術だいいとくおんきょうねんじゅつ〉。―――Caga yaカ ガ ヤ!」

 

 クソ喰らえ、という下品なスペイン語を叫び、千年に一人の美少女ともいわれる退魔巫女は静かに舞い降りた。

 

 

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