―第38試合 童話と恐怖の時代 前編―
第281話「謎のレストランテ」
両国国技館を東に行く人気のない通りを、
羽田は隣にいる女を、合コンで知り合った、つまらない奴だと思っていた。
日本では名前が売れている広告代理店に勤める彼は、女というものに不自由したことはない。
本質はともかく、見た目は陽気でコミュニケーション能力の高い彼はどこの場所にいても中心に立って好き放題に生きて行けた。
性器が乾く暇もないと下品な冗談をいうほどの乱れた爛れた生活をしていたこともある。
女性に対する見下した考えも、その頃に身体に沁みついた。
隣にいる見た目だけは整った女のこともはるか下に見ていた。
それなりの企業の受付だということだが、世界的企業である自分の会社に比べればたいしたことのないものだし、社会的地位など格下すぎる。
特に、営業である彼からすれば受付などただの飾り役で重要度なんてないに等しい。
だから、羽田は女のことを性欲処理のための道具程度にしか考えていなかった。
主体性がなく、自分の頭で考えて決断をすることはできない。
流されやすく、羽田が匂わす楽し気な話だけに食いつき、サバサバした女を演じているだけで実は重い性格をしている。
要するに、遊ぶだけにはいい女だ。
そう決めつけていた。
だから、簡単に合コンから連れ出したし、このあと少しよさげなホテルにでも持ち帰ることも可能だった。
錦糸町方面に行けば趣味のいいホテルはいくつか知っている。
ただ、思ったよりも合コン会場で飲みが足りなかったせいか、ベッドで弄ぶ前にあとわずかだけでも腹に詰めておきたかった。
とはいえ、せっかくハイソな生活を匂わせてひっかけたのだから、あまり安い店に行くことは避けたい。
どうせ、交際費で落としてしまうのだから、わりと奮発してもいいか。
周囲を見渡すと、すぐ傍に江戸東京博物館へと続く道があるだけで、良さそうな店はどこにもない。
少し歩けば見つけられるか。
ホテルまではタクシーに乗ればいい。
「少し歩こうか」
「はい」
女はすでに羽田の言いなりだ。
もしかしたら、もう彼の女のつもりで、頭に中には結婚生活が夢見られているかもしれない。
遊び女にそんな未来はないというのに。
「もう少し、二人で飲もうか。さっきはみんながいてうるさかったからね。のんびり君のことを聞きたいな」
「えー、羽田さん、あたしのことなんか知りたいんですか?」
「もちろんさ」
腕を組んできた。
サバサバを気取っているつもりなので、たいして親しくない会ったばかりの男とも友達っぽく振る舞える自分が好きなのだ。
とはいえ、その本音は女そのもの。
肉食系ということばが相応しい。
しかし、羽田からすれば肉を奪われるのは女の方であり、骨までしゃぶっても気が咎めない程度の相手だ。
目的を果たせばそのまま捨てても惜しくないし、心が痛むことはない。
その時、どうっと背後から一陣の風が吹き抜けた。
思わず、格好をつけるために開け放っていたコートの襟を絞める。
高い建物は江戸東京博物館だけなので、あそこから噴きつけてきたビル風であろうか。
「あれにしようか」
羽田は道の脇に、一軒の高級なたたずまいの店があるのを見つけた。
入口はやや奥まった場所にあり、看板が見切れる程度にしかでていないので、すぐにはレストランテとは気がつかれないだろう。
白い煉瓦を積まれた敷地内にはガーデニングの癖などはセンスの良さを感じさせて、高級感を醸し出している。
ロシア風かな、とイメージした。
「
看板を見た女が言う。
書かれている文字はどうやらロシア語らしい。
大学時代にロシア語を専攻していたのではないことから、読むこともできない。
隣にいる女は絶対に思っていないだろうが、頭の緩いやつにバカにされている気分になって面白くなかった。
「おや、いらっしゃいませお客様。レストランテ・ディーカヤ・コーシカへようこそ」
突然、店の扉の脇から、蝶ネクタイと白いシャツ、ギャルソン用のエプロンをつけた初老の男が声を掛けてきた。
丁寧に油で撫でつけた髪型と蓄えられた口ひげは年季の入ったギャルソンであることを無言で自己紹介している。
このレストランテの従業員であることは確かだった。
胸のあたりに黒猫をデフォルメしたアップリケをつけている。
黒猫はよくよくみると看板にも同じものが描かれていた。
「あ、予約はしていないのだが……」
「そうでございますか。通常ならば予約されたお客様を優先しなければならず、予約なしのお客様はお断りしているところですが、今日は予定外のキャンセルがございまして、食材を無駄にするのも考え物なので、さて客引きでもしようかと思っておりましたところなのでちょうどよろしかったです。お客様、当レストランテでお食事でもいかがでしょうか?」
「あ、ああ」
一切の息継ぎもせずに喋るギャルソンであった。
早口なのに内容は十分に聞き取れるという不思議な話し方をする。
ただ、羽田達を招き入れようとしているのは確かだった。
「……じゃあ、食べさせてもらおうかな」
「はい、ありがとうございます。ただ……」
「ただ?」
「ご予約のないお客様については、少々、こちらからご注文をだすことがありますでしょうが、ご容赦ください」
「どんな注文なんだ?」
「大したことはございません。ほんのちょっとしたことばかりですので」
「なら、頼む。彼女のためにとっておきのワインを用意してやってくれ」
「羽田さん……」
女の前で格好つけるタイミングを逃さないのは、羽田のナチュラルな特技であった。
「よろしゅうございます。では、お客様方、どうぞ我がディーカヤ・コーシカへ」
ギャルソンに案内されて、二人は店内に入っていく。
手動式の扉をギャルソンが閉めようとした寸前、女が口を開いた。
「ディーカヤ・コーシカってどういう意味なの? ロシア語?」
すると、ギャルソンは口ひげに触ってから、まるで自慢の我が子を紹介するような口ぶりで言った。
「その通りございます、お客様。ディーカヤ・コーシカは、遠いシベリアにあるロシアの言葉で、山猫という意味でございます。日本語でなら、“山猫軒”というところでございましょうか」
慇懃な態度でギャリソンは扉を閉めた。
外の世界と店内の二つを隔てる扉を。
バタン、と。
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